なんくるないさ精神排除 我喜屋監督「高校野球の監督は畑仕事」

[ 2010年8月24日 09:02 ]

我喜屋監督からねぎらいをうける興南・島袋(左)と山川のバッテリー

 沖縄に初めて深紅の大優勝旗をもたらした興南の我喜屋(がきや)優監督(60)。07年4月の就任後、わずか3年あまりで史上6校目となる春夏連覇の快挙を達成した。自身、現役時代に甲子園4強、都市対抗優勝など輝かしい球歴を持つ同監督。北海道での社会人野球時代、そして母校に戻って高校球児の指導にあたるその信念とは。全国4028校の頂点に立った名将の素顔に迫った。

 就任3年目で春夏連覇を成し遂げた我喜屋監督。その名将は少年時代、金網越しに米軍隊員がキャッチボールをしていたのを見て野球を始めた。ただ、入学した中学に野球部はなく陸上部に入部。棒高跳びを始めた。その棒高跳びで沖縄の新記録をつくったことが目に留まり興南に誘われた。

 「でも1人で棒を持って走るよりも、甲子園という大きな場所を目指す方がいいなと思って野球部に入れてもらった。途中入部だし、一生、球拾いで終わると思って球拾いとか洗濯とか、人の嫌がることばかりやってました」

 1年夏に興南が甲子園初出場。「あいつは雑用を文句も言わないでやっているから」と雑用係で甲子園に帯同した。パスポートを手に船で19時間、寝台列車で18時間かけてたどりついた甲子園で衝撃を受けた。「ここで王さんや長嶋さんがやってるんだ。今度は自分たちの力で来たい」。球拾い覚悟で入部した元陸上部員は、2年後に主将として甲子園に戻りベスト4にまで進出した。

 卒業後は大昭和製紙富士を経て3年後に大昭和製紙北海道へ。72年1月10日だった。「千歳空港に降りたときはマイナス12度。絶対に人の住む所じゃないと思った」。それでも暮らしていくうちに北海道の魅力も見えてきた。「雪の下で耐えているのは生命力が強い。北海道の野球が人生に見えてきた。半年間の冬が源になる」

 選手として都市対抗で北海道勢として初優勝。89年には監督に就任して4年連続で都市対抗に出場した。その後、クラブチームを率いていた際、駒大苫小牧・香田前監督から相談を受けた。「冬の練習の仕方が分からないと相談されたので、外でやれと言ったんです。雪がありますと言うから北海道弁で“取ればいいべや”と」。北海道のチームは、冬になると当然のように室内練習場にこもったが「それだと筋力は上がっても技術が上がらない」。以来駒大苫小牧は冬でも雪を踏み固めて雪上ノックを実施。04、05年と夏の甲子園連覇につなげた。同校の躍進は「高校野球の監督は絶対にやらないと決めていた」という我喜屋監督の中に「高校野球も悪くないな」と思わせた。

 そして06年夏。早実と駒大苫小牧による決勝再試合後に、母校からの監督就任要請。「実は北海道に永住しようと思って家も買っていた」。しかし、沖縄の高校球界を引っ張ってきたはずの母校は83年以来、23年も甲子園から遠ざかっていた。立ち上がらないわけにはいかなかった。

 最初に手がけたのは沖縄特有の「なんくるないさ(何とかなるさ)」精神の排除だった。整理整頓や時間厳守。「小さいことができない人は大きいこともできない」と生活面を厳しく指導した。生活面がしっかりしてくるとサインミスやボーンヘッドが減るなど、選手はみるみるうちに変わっていった。「高校野球の監督は畑仕事みたいなもの。毎日、水をやり光を当てれば育っていく」。センバツを制してからは連覇へのプレッシャーとも戦った。指揮官は選手に「大きな目標をつかむよりも、ちょっとジャンプすれば手が届く努力を毎日しよう」と言い聞かせた。そうすることで個々のレベルアップに目を向かせた。

 指導者として絶対にしないと決めていることがある。「社会人の頃から1度も手を出したことはないです。口で言えば分かる。チームづくりは言葉ですべきです」。すべての言葉に意味があり、決してブレない。我喜屋監督の信念は、沖縄に大輪の花を咲かせた。

 ◆我喜屋 優(がきや・まさる)1950年(昭25)6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれの60歳。興南の主将として68年夏の甲子園で4強進出。卒業後は大昭和製紙富士に入社して野球を続け、72年に大昭和製紙北海道に移籍。74年都市対抗で優勝した。89年に大昭和製紙北海道監督に就任。93年の同チーム休部後、94年からクラブチームのヴィガしらおいを率いた。07年から興南監督に就任。今年7月には同校理事長に就任。家族は万里夫人と2女。

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2010年8月24日のニュース