阪神・岡田監督が死去の中西太氏を悼む「いや、もう、職人というかな。夜ネット張って、庭で」

[ 2023年5月18日 17:00 ]

中西太監督代行(左)からアドバイスを受ける岡田彰布(1980年撮影)
Photo By スポニチ

 西鉄(現西武)の強打者として黄金期を支え、選手兼任で監督も務めた中西太(なかにし・ふとし)さんが11日に東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。90歳だった。西鉄以外にも監督、コーチを務めて球界に教え子が数多く、阪神・岡田彰布監督(65)も1~2年目に打撃コーチ、監督として薫陶を受けた一人だ。

 79年ドラフト会議では早大から6球団競合の1位で相思相愛だった阪神入りしながら、当時のドン・ブレイザー監督が新人を1年目から起用しないメジャー流の方針を打ち出し、デーブ・ヒルトン内野手を優先。岡田は開幕後も代打出場が続いたことでファンからの抗議電話が球団に殺到する騒動に発展した。不振のヒルトンは5月上旬に解雇。ブレイザー監督も同中旬に電撃退団した。代わってコーチから監督に昇格した中西太が岡田を先発起用し、108試合で打率・290、18本塁打、54打点で新人王に輝いた。翌81年も監督を務め、プロでは“最初の恩師”と言っていい存在だった。

 中日戦を控えたバンテリンドームで報道陣に対応し、突然の訃報を悼んだ。

 ――中西さんが亡くなった。
 「いや、今日、記者から電話あって、聞いたよ」

 ――突然のこと。
 「うん、そりゃ、突然やけど。(他界は)11日やったらしいな。もう1週間くらいたってるんやろ?ぜんぜん知らんかった」

 ――岡田監督のプロ野球人生にも大きな方だった。
 「いやいやだって、1年目はバッティングコーチでな。どこや、アリゾナか。アリゾナ2年いったんかな。2年目は途中から監督やったからな。ブレイザー辞めてからは。だから、2年間か。アリゾナのときな。バッティングコーチと、監督と、両方やろな」

 ――どんな方だった。
 「いや、もう、職人というかな。夜ネット張って、庭で。あれ、何ていうホテルやったかな、アリゾナ州立大の近くのホテルやったけどな。ネット張って、スポンジボールかな。至近距離からティーをやるというのが毎晩の日課やったかな。最初のバッティングコーチのときは」

 ――教え方はシンプルだった。
 「お~ん、そうやなあ。本当にもう近くから、ポッとティーを上げるアレ(やり方)やから、指先を何回かバットで打ったことあるわ」

 ――最近は会う機会もなかった?
 「最近は(球場に)来てないか。もうユニホームきてからはおうてないかなあ。(スポーツ新聞で)コメント(評論)やってたやろ?」

 ――監督に復帰してからは。
 「そら。おうてないわ。だいぶ悪かったんちゃうか、ほとんど顔見んかったからなあ」

 ――指先をバットで打ってしまったというのは熱心に付き合ってもらったということ?
 「いや、みんな打ってたと思うで。カケ(掛布)さんも真弓さんも。ホント近くからティーを上げてポッと、スポンジボール上げるようなティーやったからなあ。スポンジボールやから、夜やから、あんまり音(を鳴ら)したらあかん。アメリカやからな。それの記憶はあるなあ」

 ――1年目はブレイザー監督が新人は使わないという方針で、ヒルトンを起用。中西さんが5月に監督になってから起用された。その時に伝えられたことは。
 「いやいや、まあ、それはあんまりない。そんなんあれやけど、(春季キャンプで)1日前倒しで言うてしもうたんやな。中西さんがな。A組誰々、誰々ヒルトン言うてな。来てないのに。(合流する)日にち間違えとったんや。で、ヒルトンって誰や?になったんや。キャンプの途中から来たからな。ヒルトン。次の日から来とった。だから、日にち間違えとったんや。A組かなんかのグループごとのバッティング周りのあれで。いきなり、中西さんがヒルトンとか名前出すから。で、ヒルトンって誰や?ってみんな言うとって。そらヤクルトおったヒルトンらしいでて。で、結局、日にち間違ごうて、次の日から来とったわ。おーん」

 ――中西監督のもとで新人王になった。
 「そうそうそう。だからいつや、5月の半ばくらいかな。ブレーザーがやめて、代行監督みたいなのでな。それから、ほとんど試合に出たけどな。まあ、その前から出てたけどな。4月の末くらいからスタメンでは出とったけど、それからまあ、7番くらいだったのかな、それが6になって、最後は5番やったかな。クリーンアップ打ってたけどなあ」

 ――試合に出る中でも指導や声をかけてもらったり。
 「誰やったかな、バッティングコーチ。相羽さんやったかな。もう一人サブで、相羽さんかな。もう一人、相羽さんちごうたかな、中西さんともう一人のバッティングコーチ。一回調べてみて。相羽さんと思うけどな」
 ※相羽欣厚さん(当時は2軍打撃コーチ)1軍打撃コーチは中西さんのみ。監督就任により、相羽さんが1軍に来たのかどうかは不明。

 ――長所を伸ばす指導が持ち味。
 「基本的にはな、外を振りながらインコースをさばく打ち方やったからな。だからみんな結構フォーム似とったやろ。バットを前にしてな。外、外に…的な、な。ティーもな。インコースはさばくっていうな。まあだから、結局あのときオリックスにいた時もバッティングコーチやったからな。新井さんと、まあヘッドコーチか。ヘッドコーチ兼バッティングみたいなもんやったからな。最後のオリックスの時はな、現役の。最後優勝したときもそうや、ヘッドコーチやったわな。仰木さんのとこでな。その時はもうだいぶ歳いっとったから、そんなあんまり指導いうのはなかったっけど。細いバットをつくってな。みんな若いやつにまた違ったバッティングを教えとったよ。軽い、600グラムくらいの細いバットやったかな。それをスイングする形をつくるのにな。おーん」

 ――訃報聞かれて残念?
 「そうや、だから吉田さんの一個上ちゃうか?(昭和)7年やろ。7年生まれちがう?たぶん吉田さんの一個上やったと思うからな。もうう91か2ぐらいやろう。なあ。おーん。最近はずっと、ほんまに名前も聞かんかったからな。最後はたまーに神宮に来てるってイメージはあったけどな。家が渋谷やろ?だから神宮に来て、なんかヤクルトの選手にちょっと教えているっていうかな。岩村とかあのへんや、だいたいな。あの当時はな。指導しているっていうのでは最後ぐらいかなあ」

 ――スポンジボールに軽いバット。練習方法にも工夫があった。
 「おーん。オリックスのときは、ほそーいな、つまようじみたいなバットやったわ、600グラムぐらいの。もともと体が弱い、心臓のペースメーカーしているからな、オリックスのときから。だからおまえアレやろ。4年に臨時コーチで倉敷のときは3日ぐらいで一回帰ったんちゃうかな。体調悪い、いうて。倉敷やから2004年か5年の秋のキャンプかな。臨時コーチで確か来てるはずやで、倉敷に。あの時も2週間ぐらいの予定やったけど、3日か4日で体調悪い言うて帰ってるはずやわ。それでもだいぶ前やからな。20年近く前やけど。元々体調よくなかったんやろ。オリックスの時から心臓のな、ペースメーカーはめとったから。ずっと」

続きを表示

「始球式」特集記事

「落合博満」特集記事

2023年5月18日のニュース