中日・根尾 投手成功の鍵は…野手から投手に転向2人の先輩・嘉勢氏&萩原氏が助言

[ 2022年7月1日 04:46 ]

中日・根尾の投球フォーム
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 外野手から6月21日に登録が変更された中日・根尾昂投手(22)は、プロ野球でも数少ない「野手→投手」という転向パターン。過去に同じ形で転向し、投手としてチームに貢献した2人が、それぞれの経験を振り返ることで、「投手・根尾」が成功するためのポイントを探る。(プロ野球取材班)

 <ケース(1)嘉勢敏弘(当時オリックス)=現・阪神打撃投手>

 高校時代は北陽のエース左腕で、外野手として入団。仰木彬監督の下、97年には二刀流も経験し、00年途中に投手に転向した(投手登録は01年から)。「(00年の)6月くらいに仰木さんに呼ばれて、明日から投手の練習をしてこい、と。それからファームですぐに登板して、8月に入るか入らないか(7月31日)で1軍に戻って投げた」と回想した。

 00年に早くも21試合に登板。「野手の練習を全部やってから投球練習をしていたから、しんどいイメージしかない」という過酷な二刀流時代もあっただけに、「練習に戸惑いはなかった」という。翌01年にはリーグ最多の70試合登板も果たすなど、貴重な左の中継ぎとして活躍した。

 対戦相手として、転向直後の6月25日の根尾の投球を見た。自身の経験も踏まえ「まだボールが上ずっている。最初はどうしてもそうなる。体が強いけど抑えが利かないのは、投手としての投げ込みができていないから。ファームで少し投げ込む機会があった方がいいと思う」と指摘。その上で「今は150キロが出ても打者にはそんなスピードには見えていないと思う。これが投手の球になってきたら楽しみ。素質は間違いなくあるので」とエールを送った。

 ◇嘉勢 敏弘(かせ・としひろ)1976年(昭51)10月6日生まれ、兵庫県出身の45歳。北陽(現関大北陽)3年時にエース兼4番として春夏連続甲子園出場。94年ドラフト1位で外野手としてオリックス入団。プロ3年目の97年に二刀流に挑戦した。04年に現役引退。通算成績は投手が136試合で3勝7敗、防御率4・84。野手が272試合で打率・135、9打点。05年から阪神打撃投手。左投げ左打ち。

 <ケース(2)萩原淳(当時オリックス)=現・日本海オセアンリーグ富山投手コーチ>

 東海大甲府では強打の内野手で、田口壮(現オリックス外野守備走塁コーチ)、イチロー(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)と同期で入団。本格的な投手経験はなかった。1軍出場わずか7試合で迎えた9年目、00年のある日。新井宏昌2軍監督から呼ばれ「クビになるんだろうな」と思ったら、投手転向の通告だった。寝耳に水だったが「肩だけは自慢だった」という強肩を買われてのものだった。

 それからは連日、ブルペンで100~200球の投げ込みに励んだ。「最初は“野手投げ”で体の開きが早かった」と打者が見づらいフォームを追求。一時はインステップやサイドからの投球も試すなど試行錯誤した。当初、変化球はカーブ、スライダーしかなかったが、当時2軍にいた野田浩司から宝刀フォークを学び、大きな武器となった。

 野手での9年間は、無駄ではなかったと言い切る。「野手時代の練習で体が強くなった。ケガをしない体になった」。02年に48試合、05年に49試合投げるなど貴重な中継ぎ右腕として通算270試合に登板を果たした基盤は、体の強さだという。根尾に対しても、まずは故障をしないことが重要だと訴え、「映像を見ても、かなり良い球を投げている。ケガをしないで頑張ってほしい」と期待を込めた。

 ◇萩原 淳(はぎわら・じゅん)1973年(昭48)8月20日生まれ、東京都出身の48歳。東海大甲府では2、3年春に甲子園出場。高校通算25本塁打。91年ドラフト2位で内野手としてオリックス入団。00年途中に投手に転向した。07年には日本ハム、08~10年はヤクルトでプレーした。通算成績は投手が270試合で13勝15敗15セーブ、防御率4・91。野手が277試合で打率・091。右投げ右打ち。

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