阪神ドラ3・桐敷拓馬 松坂に憧れた完全試合男 中学3年生で恩師・鵜瀬氏と“運命的”第一歩

[ 2021年12月4日 05:30 ]

阪神新人連載「猛虎新時代の鼓動」3位・桐敷(上)

本庄東高時代の桐敷(父・徹さん提供)
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 10月11日のドラフト会議から5日後。半信半疑だった阪神ファンも150キロ左腕の桐敷拓馬が本物であることを確信した。同16日の平成国際大戦で関甲新学生リーグ最多19三振を奪いリーグ史上初の完全試合を達成。恩師の一人である新潟医療福祉大・鵜瀬亮一監督(41)も「この野球部で学ぶことは全部学んだんじゃないかって気持ちになった」と、隙のない完璧な投球に目を細めた。

 鵜瀬氏と出会ったのは拓馬が中学3年の夏。当時、指揮官は埼玉・本庄東高でコーチを務めていた。「甲子園を目指して頑張ろうということでいろんな試合を見に行かせてもらった。うち(本庄東)に通える範囲内のところで、彼が投げている試合をたまたま見たのがきっかけ」。行田リトルシニアでプレーする拓馬にほれ、声をかけた。

 ただ、拓馬は「最後くらい、短い時間でも一緒にやりたい思いがあった」と2歳上の兄・隼人さんがいる公立校を目指しており一度、誘いを断った。それでも、変わらない熱意などもあり、両親とも相談したうえで12月末に本庄東への進学を決意。同期44人の中では最後の決定者だった。「今でも覚えていますけど、来てくれるって聞いて職員室の前で思わず“よっしゃ”じゃないですけど、そんな声を発してしまった気がします」。鵜瀬氏にとっても運命を感じた瞬間だった。

 「新たな道をたくましく切り拓(ひら)いてほしい」という願いを込められ拓馬と名付けられた。自宅の庭で父・徹さん(54)とボール遊びをしたのをきっかけに、屈巣小1年時に兄とともに「屈巣ニュースターズ」で野球を始めた。左投げの投手だったが、憧れたのは西武から06年オフにレッドソックスに移籍した松坂大輔だった。

 「投球(フォーム)をまねしたり。(09年の第2回)WBCは試合がちょうど学校が終わるくらいの時間帯だったりして、走って(家に)帰ってテレビで見てました」

 一方で、休み時間は友人とサッカーに興じ、川里中時代は野球の試合を優先しながらも中学のサッカー部にも在籍した。「水泳も小学校6年間習ってました。バスケも得意でしたし、運動が好きな子でした」と父が振り返るように、スポーツ万能でもあった。

 本庄東では1年秋から主戦投手を務めた。2年になって鵜瀬氏が新潟医療福祉大に赴任し、一時の別れも経験した。3年夏は埼玉大会の初戦で埼玉栄に勝つなどして注目を集めたが5回戦敗退。甲子園出場はかなわなかったが、関東圏の複数の大学から声がかかるまでになっていた。ただ、思わぬ縁で「恩師」と再会することになる。(阪井 日向)

 ◇桐敷 拓馬(きりしき・たくま)1999年(平11)6月20日生まれ、埼玉県出身の22歳。屈巣小1年から野球を始め、川里中では行田リトルシニアに所属。本庄東では1年秋からエースも甲子園出場なし。新潟医療福祉大では1年秋からリーグ戦に出場し通算33試合で11勝7敗、防御率2.27。4年秋の平成国際大戦でリーグ最多19奪三振でリーグ初の完全試合を達成。1メートル78、90キロ。左投げ左打ち。

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