気がつけば40年(31)1992年 西伊豆の落合道場に電撃入門したのは長嶋一茂だった

[ 2020年11月10日 08:30 ]

長嶋一茂の電撃落合道場入りを報じた1992年1月19日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は1992年、西伊豆の田子にある歌手・五木ひろしさんの別荘で自主トレ中の中日・落合博満の下を訪れた選手について書きたい。

 小さな半島の出っ張りがすべて敷地。約1万坪(約3万3000平方メートル)の別荘地の中にはプライベートビーチから無農薬菜園まである。自主トレ初日1月17日、落合は超豪華な別荘で高らかにぶち上げた。

 「4億円でいいんじゃないよ。それを叩き台にするってことなんだ」

 年俸の話である。

 1990年は34本塁打、102打点で2冠に輝き、2億7000万円を要求。2億2000万円を主張する球団側と平行線をたどり、年俸調停に持ち込んだ。結果は球団側の主張が認められて2億2000万円でサインした。

 1991年は37本塁打で2年連続本塁打王。首位打者は古田敦也(ヤクルト)に3毛差で及ばなかったが、打率・340をマークし、3億円を勝ち取った。その際、3冠王と優勝を条件に球団から取り付けたのが4億円の約束。それを受けて「4億円はあくまで叩き台」と話したのである。

 お約束的な原稿ではあるが、ひと仕事終えた我々取材陣は近くの旅館に一泊。翌18日は朝の散歩に同行して帰るつもりだった。散歩の終わりがけに落合が「みんなこれからどうするんだ?」と聞くから「帰ります」と答えたら「フーン」。思わせぶりな顔をして「オレだったら帰らないけどな」と言う。

 誰か来るんだ。西武の清原和博が同じ伊豆の大仁で自主トレをしている。清原は落合に心酔し、アドバイスを求めて名古屋市の自宅を訪れたこともある。当時落合の個人マネージャーだった松原徹さん(のちの日本プロ野球選手会事務局長)に「清原?」と聞いたら、首をひねられた。

 誰なんだ。いずれにしても誰か確認するまでは帰れない。午後3時前、白いソアラが五木さんの別荘地に滑り込んだ。バット1本とバッグを抱えて出てきたのは何と、ヤクルト入団5年目の長嶋一茂だった。

 約1時間後、落合と一茂は別荘から歩いて15分ほどのところになる田子中学の校庭へ。5分ほどキャッチボールをしたあと、落合が「さあ、振ってみろ」と一茂にバットを差し出した。

 「もっと左肘を伸ばして」

 「左肩が入り過ぎちゃダメだぞ」

 「スタンスが逆ハの字になってるぞ。スクエアにして内側の力を使わなきゃ」

 次々に飛ぶアドバイス。各社のカメラマンは前日の取材を終えて帰っている。町のカメラ屋で買ってきた使い捨てカメラが行列をなして2人を写す。「カシャ、ジーコ」の音が鳴り止まない。信子夫人はその光景を面白がってビデオを回していた。

 落合にとって一茂は敬愛するミスターの長男。「あれだけ飛ばす素質を持っているのに、今のままではもったいない」と思い続けてきた。「教えて下さい」という申し出を快く受けたのである。

 西伊豆の落合道場は4日間続いた。成果が期待されたが、一茂はユマキャンプ初日に風邪を引いて出遅れ、オープン戦でも結果が出せなかった。

 結局、開幕構想から外されて1Aベロビーチ・ドジャースへ野球留学。この年のオフ、父親が監督復帰した巨人に金銭トレードで移籍することになる。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。

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