阪神・小林繁の悲運…完封が一転、敬遠球でサヨナラ暴投

[ 2020年4月12日 05:30 ]

開幕よ、来い――猛虎のシーズン初戦を振り返る

1982年4月3日、大洋戦。自らの暴投でサヨナラ負けとなり、立ち尽くす阪神・小林繁(中央)
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 【1982年4月3日 横浜スタジアム 阪神2―3大洋】4日付スポニチ1面の見出しは「小林開幕地獄」だった。メイン原稿の横には「記者の目」まで添えてあった。衝撃度の大きさが伝わる。

 小林繁は2点の援護を背に8回まで散発2安打に封じ、完封ペースだった。迎えた9回裏のマウンド。急変の予兆のように雨が降りだした。先頭で代打・高木豊に中前打され、暗転に拍車がかかった。2死からの連続適時打で同点を許し、なお一、三塁。左打者の高木嘉一を迎え、ベンチからは敬遠策が出た。右打者のマークの方がくみしやすいという判断だった。

 再開した時点でプレーボールから3時間を超えた。当時のルールで延長回への突入がなくなり、この時点で勝利の可能性がなくなったことも心理的な影響を及ぼしたかもしれない。1球目は低めへ。立ち上がってミットを構えていた捕手の若菜嘉晴は慌てて座るように捕球した。2球目、今度は跳び上がって捕るほど高く浮いた。

 そして、3球目、計131球目が大きく三塁側へそれ、ワンバウンドしてバックネットに当たった。小林は天を仰ぎ、若菜は追いかけてつかんだボールをグラウンドに叩きつけた。三塁走者の大久保弘司がサヨナラ生還し、小躍りして歓喜の輪に飛び込んでいったのとは残酷なほど対照的な光景だった。

 重苦しい沈黙がたれこめた試合後のロッカー室。小林はひと口だけ茶を流し込んだ後、「緊張していたのかもしれない」と絞り出した。

 小林の開幕には悲運がついて回った。“江川事件”の余波で79年2月に電撃トレードで加入。22勝(9敗)を挙げ、翌80年の広島との開幕戦で先発を任された。巨人時代にも経験のなかった大役。勝敗は付かなかったとはいえ、キャリアで一度しかない1試合5被弾の屈辱を晴れ舞台で味わった。81年のヤクルト戦は初回に打球が左足に直撃。のちに6針を縫うことになる負傷で、流血しながらの力投は実らず8失点に沈んだ。83年のヤクルト戦も7回4失点で敗戦投手。4年連続で勝てず、83年限りで現役を退き、5度目は訪れなかった。=敬称略=

 ▽1982年の世相 ホテルニュージャパン火災で33人死亡(2月)、日航機が羽田沖に墜落、24人死亡(2月)、500円硬貨発行(4月)、東北新幹線開業(6月)、「笑っていいとも!」放送開始(10月)、ロッテ・落合博満が史上最年少28歳で三冠王(10月)、上越新幹線開業(11月)【流行語】「逆噴射」「ネクラ」「ルンルン」

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