『ナイン』のように団結を――「吉里吉里忌」に思うコロナ禍

[ 2020年4月8日 18:10 ]

現在の外濠公園野球場。三塁側後方にはビルが建ち並んでいる(3月20日午前7時19分撮影)
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 【内田雅也の広角追球】作家・井上ひさし氏は前回東京五輪のあった1964(昭和39)年の暮れから3年間、東京・四ツ谷駅前の新道(しんみち)通り商店街で暮らしていたそうだ。連作短編集『ナイン』(1987年6月発行=講談社)に、畳店の仕事場2階を借りていたと書いている。

 タイトルのナインとはもちろん野球チームの選手たちのことだ。畳店の長男・英夫がエースの新道少年野球団が1966年、新宿区の少年野球大会で準優勝した。書き手(つまり井上氏)は夕方、凱旋(がいせん)パレードを見たのだった。

 レギュラー9人の当時とその後の人生を追って物語は展開する。強かったはずのナインの団結が時間の経過とともに、ばらばらになる。4番・捕手で主将だった正太郎が当時のメンバーから金銭の踏み倒しや持ち逃げをして回っていた。

 それでも英夫は正太郎のことを決して悪く言わない。周りの人には絶対に分からない心のつながりを主張する。準決勝・決勝が行われた夏の日の隠れたドラマを打ち明ける。

 新道少年野球団のベンチは三塁側だった。一塁側からネット裏にかけては土手があり、桜の木が植えられていた。一塁側は日陰になるが、三塁側は屋根もなく、ずっと太陽に焼かれていた。

 特に2試合連続登板の英夫の消耗は激しく、ぐったりしていた。すると、正太郎が英夫の前に立ち、日陰をつくってくれた。他の選手たちもまねた。それが延長12回まで続いた。だからパレードではうれし泣きをしたのだという。

 「このナインにできないことはなにもない。そんな気持ちでいっぱいでした。その気持ちはいまでもどこかに残っていると思います」

 相手を思いやる心根は「やはり僕らのキャプテン」だという。野球が持つ一つの美点が描かれている。

 自身の少年時代の経験をもとに書かれた小説『下駄(げた)の上の卵』(新潮文庫)でも読めるように、野球好きで知られた井上氏の真骨頂である。

 今年3月下旬、『ナイン』の舞台となった四谷新道商店街や外濠公園野球場を訪ねてみた。猛威をふるう新型コロナウイルス禍もまだ序の口で、プロ野球も無観客の練習試合を行っていた。阪神に同行し、東京に出張した折、朝に宿泊先の半蔵門から歩いた。

 野球場の一塁側の土手は確かに桜並木で、当時は五分咲きといったところだった。一塁側後方には大きなビルが建ち並び、三塁側ベンチにも日陰ができるようだった。

 井上ひさしは9日が命日だ。2010年、75歳で逝った。代表作の一つ『吉里吉里人』にちなみ「吉里吉里忌」と呼ばれている。

 疫病禍は深刻さを増し、政府から緊急事態宣言も出た。プロ野球は開幕延期を繰り返し、先が見えない暗闇にいる。もちろん、アマチュア野球も、他のどんなスポーツもイベントも同じだ。「家にいよう。命を守ろう」と、静かに息を殺して暮らしている。

 「むずかしいことはやさしく。やさしいことは深く。深いことは愉快に」をモットーとしていた井上氏なら、何を言うだろう。

 井上氏が放送台本を手がけたNHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』を思った。幼いころに見入り、テーマ曲はいまも歌える。

 「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど僕らはくじけない! 泣くのは嫌だ、笑っちゃおう!」

 そう、くじけてはいけない。『ナイン』の少年たちが見せた団結で、この苦境を乗り切りたい。泣かずに、笑顔で乗り切りたい。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 小説『ナイン』に出てくる四谷新道通り商店街は若いころよく通った。他紙に同じ店に通う野球記者がいて、ナイター後の深夜、野球報道のあり方など、稚拙な論議を交わしたものだ。30年以上前の話で、もう、その店はない。1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。85年4月入社。

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