懐旧の「甲子園都市構想」――甲子園球場南側の土地利用計画から

[ 2019年9月3日 13:30 ]

甲子園球場南側にある西宮市の市有地
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 【内田雅也の広角追球】甲子園球場の南側に更地がある。酒蔵通りの道路1本を隔て隣接する西宮市の市営住宅跡地の市有地で、約3240平方メートルある。アパートは2016年に取り壊され、更地となっていた。

 以来、ずっと気になっていた。甲子園球場を持つ阪神電鉄が何か野球関連の施設を建てるのでは……と期待感をもって、取材を続けていた。

 このほど、複合商業施設を建設する計画だとわかった。新施設は3階建て。2階は甲子園球場内にある甲子園歴史館を拡張させて展示し、同館とデッキで接続する。

 1階は飲食・物販。3階は子どもが遊べるキッズゾーンやチアリーディングの練習ができる多目的ホールを設ける。2020年に西宮市と賃貸借契約を結んで着工、2021年のオープンを目指す。

 阪神電鉄本社、甲子園球場、阪神球団関係者が今春渡米し、ニューヨークやアトランタなどでメジャー、マイナーの本拠地球場を視察。国内の球場も視察し、今回の計画の参考にしたそうだ。

 市有地東側にある商業施設ららぽーと甲子園とデッキでつなぐ案も出ている。

 取材過程では、阪神電鉄内部から動物園や水族館、公式戦や国際試合もできる本格的卓球場、eスポーツの聖地……といった案も出ていた。

 昨年夏、全国高校野球選手権大会が100回という大きな節目を迎えた際には、甲子園球場に入りきらない多くの入場者が訪れた。このため、大会前には空き地を利用する形で臨時にパブリックビューイングを行う案も出ていたが、残念ながら立ち消えをなった。

 PVで観衆が群がり、歓声をあげる様子を想像し、楽しみにしていた。昭和初期、夏の甲子園大会を主催する大阪朝日新聞が大阪・中之島公園や京都・円山公園に試合速報器「プレヨグラフ」を設置し、多くの人々が見入ったそうだ。大阪毎日新聞主催の春の選抜大会開催時には同様の「大毎速報板」があった。100年以上の歴史がある高校野球で、昔と変わらぬファンの熱狂を見たかった。

 思えば、案としてあった水族館は昭和初期、浜甲子園にあった阪神水族館(1935年開園)、動物園も阪神パーク(2003年閉鎖)の動物園への郷愁がこもっていたのかもしれない。

 今回の市営住宅跡地(市有地)の利活用に関し、西宮市の提案のなかに「甲子園スポーツ都市」としてのまちづくりがある。甲子園駅から甲子園浜までの甲子園筋周辺をボールパークエリアと甲子園スタイル発信エリアの2核を形成するという構想だ。

 ボールパークエリアでは甲子園球場、ららぽーと甲子園、そして市営住宅跡地の新施設で「スポーツ、エンターテインメント、ショッピングを楽しめる」。甲子園スタイル発信エリアでは「日常の暮らしにスポーツ、レジャーを取り入れた健康で豊かなライフスタイル」を発信するとある。

 これはまさに戦前、阪神電鉄が甲子園球場周辺を開発した当時の考え方ではないか。

 後に阪神電鉄専務となって大球場建設を指示する三崎省三が技師長時代の1910(明治43)年、ロンドンから会社に送った書簡に<武庫川をハドソン川、テームズ川にする><鳴尾より西の海岸を遊覧地、すなわちブリックプール及びブライトン、またはコニーアイランドにするのである>とあった。欧米のリゾート地を目指していたわけだ。四男・悦治が書いた小説『甲子(こうし)の歳』(ジュンク堂書店)に、三崎が『欧米旅行記』に書簡を再録したとあった。

 1922(大正11)年、武庫川支流の枝川、申川(さるがわ)を廃川にした跡地を兵庫県から買収した際、総面積22・4万坪(約74万平方メートル)という広大なエリアの開発で学識経験者の意見を参考にした。

 たとえば、造園技師・大屋霊城(れいじょう)は「花苑都市」をコンセプトに甲子園駅北側を住宅地、南側を遊園地、運動場、海水浴場、海浜ホテル、飲食店……と構想を練った。

 実際、1924(大正13)年に甲子園球場完成後、周辺の開発も進んだ。総合競技場としての甲子園南運動場、ウィンブルドンをしのぐ「百面コート」を備える甲子園国際庭球場、甲子園水上競技場(甲子園大プール)……などのスポーツ施設。甲子園浜海水浴場の近くには先に書いた阪神水族館や動物園、甲子園娯楽場(後の浜甲子園阪神パーク)をつくり、路面電車・甲子園線で結んだ。

 だが、すべて戦争に壊されていった。1943(昭和18)年には戦闘機を製造する川西航空機の工場を拡張するため、阪神パーク、水族館や南運動場が閉鎖、用地は軍に強制的に買い上げられた。甲子園線は輸送路にするため、レールが撤去された。甲子園球場は内野がイモ畑、外野はトラックや軍用車の駐車場となった。スポーツもレジャーもない時代だった。

 時代は巡り、95歳を迎えた甲子園球場は今も「聖地」として建つ。今回の南側隣接地の計画から戦前の構想まで思いをはせた。甲子園開発にかけた先人の夢がよみがえってきた。 =敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。小学校入学前、センバツ高校野球で見た甲子園球場のとりこになった。今回取り上げた旧市営住宅は小学生当時「甲子園にこんなに近いアパートに住みたい」と父親に言ったことを覚えている。桐蔭高(和歌山)、慶大から1985年入社。大阪本社発行紙面で2007年からほぼ連日掲載のコラム『内田雅也の追球』を執筆。

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