サバイバル戦争!巨人先発陣“火花散る春”

[ 2008年12月31日 06:00 ]

 【巨人5-0ヤクルト】「監督、もう投げられません」。75年8月12日、巨人-阪神14回戦が終わった後、後楽園球場内にあった選手浴場で身長1メートル81の左腕投手は涙を流して訴えた。

 新浦寿夫、24歳。「ピッチャー、新浦」がコールされると、三塁側の応援席は拍手の嵐、一塁側の巨人ファンは次々に席を立ち、下を向きながら家路についた。最下位にあえいだ長嶋巨人1年目の75年。そんな光景が後楽園球場で繰り返された。

 “投げられない”発言から約3週間後の8月最後の日曜日。ファームから再度1軍へ昇格した新浦は、神宮でのヤクルト23回戦に先発。初回、永尾泰憲遊撃手に右中間三塁打を打たれたものの、その後は無安打ピッチング。それまで0勝7敗の成績がウソのように、12奪三振で完封勝利を挙げた。

 往年の中日のエースで、当時解説者だった杉下茂氏にアドバイスを請い、フォームを改善。軸足に重心を十分乗せてから投げることに留意すると、球威が増した。

 静岡商高のエースとして、第50回大会(68年)の夏の甲子園に出場。興国高(大阪)に敗れはしたが準優勝。韓国籍であることから、当時のドラフト制度では指名の対象外だったため、各球団が争奪戦を繰り広げた末、巨人に入団した。

 川上哲治監督も大器と認めていたが、マウンドに上がると別人のように気が弱くなる“ブルペンエース”の性質が災い。安定した成績が残せないまま、チームの指揮官は長嶋監督に代わっていた。

 新浦の75年の成績は2勝11敗。しかし、この日の完封で自信をつけたの間違いなかった。

 翌76年、長嶋巨人は130試合目に広島でV1を達成し、前年の屈辱を拭い去った。新浦も75年の負け数と同じだけの11の白星を重ね、優勝に貢献。先発、中継ぎ、抑えとまさにフル回転。負けても、負けても「新浦はウチの柱になる投手だから」と使い続けた、長嶋監督の信念に応えた。その出発点は夏休み最後の日のシャットアウト劇にあった。
 08年、チーム2位の67試合に登板し、巨人の70年以上の歴史の中で、リリーフのみで初の2ケタ11勝(2敗)をマークした、セ・リーグ新人王山口鉄也投手。坂本勇人遊撃手、越智大祐投手らとともに、リーグV2を果たした巨人の後半戦の快進撃を支えた若武者だ。

 この鉄腕サウスポーの歩んできた道のりは、プロ野球でプレーすることを夢見るあらゆる立場の選手に勇気と希望を与えた。

 05年の高校生ドラフト1巡目で巨人入りした、大型左腕辻内崇伸投手の契約金と年俸は合わせて1億900万円(推定)。その約20分の1で4歳年上の山口は入団した。支度金300万円、年俸240万円。05年12月1日にプロ野球実行委員会で承認され、即行われた育成ドラフトの1期生としての“入門”だった。

 2軍戦には出場できても、支配下登録選手ではないため、1軍の試合には出場できない育成選手。簡単に言えば、プロ野球選手として認められていない卵の状態であった。それを物語る背番号は3ケタの「102」。一線を退いた打撃投手が付ける番号だった。それでも山口はうれしかった。「野球ができるだけで幸せだ」。過酷な体験をした左腕は心底そう思った。

 神奈川・横浜商高出身。高3の夏は県大会8強止まりで甲子園にはたどり着けなかった。プロ入りを希望するも声はかからず、誘ってくれたのは米大リーグのアリゾナ・ダイヤモンドバックス。とは言っても契約金は1万ドル、わずか133万円(当時)のマイナー契約だった。

 マイナーでも日本の2軍かそれ以下の1Aにも入れず、ルーキーリーグが主戦場だった。毎日ハンバーガーばかり食べて、試合が終わればバスで移動する日々。同じルームメイトの選手が姿を消したかと思えば、実はクビになっていた…。そんな出来事の繰り返しで3年の歳月が流れた山口の成績は通算7勝13敗。「このまま米国にいても夢はかなえられない。日本で挑戦しよう」と決意し帰国。自主トレを積み重ねながら、秋に行われるプロ各球団のテストに備えた。

 地元・横浜、新興球団の楽天とたて続けに不合格。スピードは140キロ台を計測していたが、どうしても制球難が克服できなかった。

 もう後がなかった。05年10月末、ジャイアンツ球場での2次テスト。2軍の打者相手に、スリークオーターから投げるチェンジアップが冴えた。次々と空振りを奪う光景を見ていた吉村禎章2軍監督は言った。「これでスライダーを磨けば面白いね」。プロ野球への扉が開いた瞬間だった。

 プロ入りから新人王にのぼりつめるまで、2人の“師匠”との出会いは忘れられない。1人は横浜・工藤公康投手。06年オフ、米アリゾナで当時巨人に在籍していた工藤らとともに自主トレを行った山口。そこで工藤から口すっぱく言われたことは「すべては投球につながっている」という言葉だった。

 トレーニング、食事、睡眠…、どれをとっても最高のピッチングをするためのものであることを説かれた。「一生懸命、がむしゃら」がモットーだった山口にとっては新鮮な発想だった。現在山口の背中には102から99を経て、工藤の番号でもある47番が付いている。

 技術的な進歩を遂げたのは、巨人の正妻・阿部慎之助捕手のひと言だった。「腕を振れ。真ん中だけめがけて投げろ」。シンプルすぎるほどシンプルなアドバイスだが、コントロールを気にするあまり、腕が縮んでいた山口。球威が他の投手より優っているだけにそれさえできれば十分だった。07年、25回3分の1で17四死球を与えていた左腕は、投球回数が3倍近くなった08年、73回3分の2で15四死球と激減。早いカウントから強気の投球ができるようになり、投球内容が格段に良くなった。

 山口の成功は育成ドラフトの存在をクローズアップさせた。3年前、わずか4球団6人だった指名が、4回目を迎えた08年は8球団24人となった。それぞれ総合的な技量としてはまだまだだが、“一芸”に秀でた選手が目を引く。今や死語と化してしまった“ハングリー精神”に満ちあふれた第2、第3の山口が次々と出現して、鳴り物入りで入団した選手やトッププレーヤーを脅かす…。なかなか痛快なシーンが数多く見ることができそうだ。
 【日本ハム8-0阪急】西宮球場の阪急-日本ハム1回戦は、前年22勝を挙げ新人王をはじめ、最多勝など投手部門のあらゆるタイトルを独占した日本ハム・木田勇投手の2安打完封勝利で終わった。阪急にとって全く見せ場のない試合だった。

 本拠地開幕戦での大敗の中、日本初の本格的なマスコット人形はデビューした。阪急の新マスコット「ブレービー」。75年から78年までリーグ4連覇、3年連続日本一を達成しながら、観客動員が一向に伸びないブレーブスが打開策としてデビューさせた着ぐるみのマスコットだった。

 中に入っていたのは、30歳の男だった。島野修。2年前まではプロ野球選手の島野は69年(昭44)、巨人のドラフト1位投手。巨人は法政大の田淵幸一捕手が阪神に指名された後、指名を確約していたとされる明治大の星野仙一投手ではなく、島野を選んだ。「寿命が短い即戦力投手より、将来のエースを育てたい」という川上哲治監督の方針が、方向転換の真相という。

 入団当初から右の本格派として毎年期待されたが、巨人V9時代はわずか1勝。75年に巨人の米ベロビーチキャンプで、ドジャースを完封したこともあったが、76年には阪急へ移籍。1軍で登板機会のないまま、打撃投手を経て79年に引退した。通算成績は24試合で1勝4敗。もう野球界の仕事をすることはないと、芦屋市内で飲食店経営を始めた。

 その元投手がなぜ、ぬいぐるみを着てグラウンドに出るようになったのか。運命を決めたのは島野の“特技”だった。「金太郎」のニックネームをもつ島野は巨人でも阪急でも芸達者で別名“宴会部長”。モノマネをやらせても、歌を歌わせても右に出るものはいなかった。マスコットの中に入ってパフォーマンスをする人材を探していた球団は島野に白羽の矢を立てた。

 「そんなもん恥ずかしくてやれるか」。誰だってそう思う。島野も話が来たとき断るつもりだった。しかし、1本のビデオを見て気持ちが動いた。大リーグ、パドレスのマスコット「チキン」のパーフォーマンスは球場の雰囲気を盛り上げ、時には審判や選手と絡み笑いをとる。聞けば、日本でこのタイプのマスコットはまだ存在しないという。「ならばやってみる価値はあるかもしれない」。野球界への未練も多少あった。島野はブレービー役を引き受けた。

 決意して引き受けた仕事だったが、初めのうちは正直、何度も辞めようと思った。

 「お前、巨人のドラフト1位だった島野やろ。ようやるわな、ぬいぐるみ着て。恥ずかしくないんか」「何やっとるんじゃい。恥を知れ、恥を」。こんなヤジがスタンドから飛んだことがあった。ブレービーになって2年目。82年の夏だった。

 なんだか自分が情けなくなった。オレは曲がりなりにもプロで投げていた投手。プライドだってある。何やってんだ、オレは。もうダメだ。辞めよう。そう思いながら、島野は飲食店でヤケ酒を飲んだいた。

 その時、隣の席にいた親子の会話が耳に入った。「ブレービー、めっちゃおもろかったなぁ。また、見に行こうな、お父ちゃん」。小学生だろうか、「H」のマークが付いた阪急の帽子をかぶっていた。

 「そんなにブレービーおもろかったか。オレがそのブレービーや」。のどまで言葉が出かかった。さっきまでやけ酒をあおっていた元ドラ1投手は、この子どものひと言で変わった。

 もう後ろは振り向かない。勇気と誇りをくれた言葉を胸に、島野はひたすら盛り上げ役に徹した。阪急がオリックスに変わり、ブレービーが「ネッピー」に変わっても、気持ちは変わらなかった。

 重さ12キロの着ぐるみを身に着け、40度の熱を出しても飛び跳ね、足を捻挫してもテーピングをグルグル巻きにして全力疾走した。94年、オールスターゲームではパフォーマンスに失敗して肋骨を3本折った。それでも公式戦が再開すると、コルセット3枚で締め付けて元気よくグラウンドに登場した。「だって、試合と同じようにブレービーの登場を楽しみにしている人がいるんだから。自分の都合では休めない」。ネッピの背番号は111。「パ・リーグで1位、そして日本一、最後の1はマスコットとしてNO.1という願いを込めている」と島野。自分の仕事に誇りを持つ男の言葉だった。

 イニングの合間にパフォーマンス、チームが得点すれば生還した走者を出迎えハイタッチ、ヒーローインタビューでは選手のサポート役としてその場をショーアップする。試合開始前のファンサービスも入れれば、約6時間休む間はほとんどない。夏場は大きなヤカンに入った麦茶と酸素ボンベが必需品だ。

 98年まで積み上げた数字は1175試合連続出場。18年間、阪急、オリックスの主催ゲームは1試合も休まなかった。その姿勢に感銘し、オリックスからメジャーリーグへと巣立ったイチロー、田口壮らが一目置き、本拠地でのゲームの前には必ず挨拶していたのが、裏方に徹しチームを支えていた島野であることはあまり知られていない。

 今ではどの球場に行ってもマスコットの姿を見ないことはない。パフォーマンスも年々派手になり、中日の「ドアラ」のように本まで出るマスコットもいるほど人気と注目を集めている。球団でも「マスコットは人間じゃない」と簡単に取材をさせず、ディズニーランドのキャラクターのようにその存在を特別扱いしている。

 島野のように素性が分かった方がいいのか、悪いのか。一概には言えないが、ただこういう“野球人生”もあることをファンに知ってもらうことで、野球人気のすそのが広がっていくような気がする。

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2008年12月31日のニュース