早熟かつ晩成の稀勢の里 「折れそうな心」支えた日々の稽古

[ 2017年1月25日 07:35 ]

横綱への決意を語る稀勢の里
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 稀勢の里は早熟かつ晩成の力士だ。04年夏場所の17歳9カ月での新十両、同年九州場所の18歳3カ月での新入幕は、いずれも貴花田(のちの横綱・貴乃花)に次ぐ、年少記録。だが、30歳6カ月での横綱昇進は、30歳9カ月での昇進だった亡き師匠である元鳴戸親方の隆の里(30歳9カ月)に次いで昭和以降7位のスロー記録だ。

 苦難は幕内に上がってから始まった。新入幕から10場所後に新小結となったが、新関脇まではさらに16場所を要した。なかなか番付が上がらなかった当時を「心が折れそうになった。このまま自分は終わってしまうんじゃないか」と振り返っている。厳しい稽古を課す師匠からは、私生活も徹底的に管理されていた。許可なしでは当時千葉県松戸市にあった部屋からの勝手な外出も許されなかった。「自分はあってないようなもの」。そんな苦しい日々を乗り越えられたのは、やはり稽古だった。

 稀勢の里は継続の大切さを意識している。「稽古場が一番の精神修行」。現在は先代師匠の頃のように場所中に申し合い稽古をすることはないが、立ち合いの確認など同じ動きを繰り返す。「腐らずにやってよかった」と言えるようになった。

 稀勢の里は自分自身を競走馬のアドマイヤコジーンとダブらせたことがある。98年にG1の朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を勝った後に低迷期に突入。12戦勝利から見放されたが、02年に久々の勝ち鞍を挙げると同年6月の安田記念で3年半ぶりのG1制覇。雑誌のインタビューでは「相撲界のアドマイヤコジーン」を目指すと誓っていたが、初場所ではG1勝利に匹敵する初優勝を果たした。

 「元々晩成の家系だからここからだと思う。自分の父親も年を取ってから元気になった」。稀勢の里は相撲人生の頂点がまだ先にあると信じている。

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2017年1月25日のニュース