【内田雅也の追球】原口文仁が若林忠志賞を受賞することの意味 「胃がんで亡くなった父も喜んでいる」

[ 2022年12月15日 08:00 ]

野球殿堂入りの吉報を受けた若林忠志氏(1964年12月2日、東京・小金井市の自宅)

 若林忠志に野球殿堂入りの知らせが届いたのは1964(昭和39)年12月2日だった。東京・小金井市の自宅で記者団に「野球人として最高の感激です」と語った。選手としては沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、中島治康に次いで4人目の栄誉だった。

 当時の本紙に載った写真は笑顔で元気そうだが、やせているのが分かる。胃がんに冒され、同年3月に胃の全摘手術を受けていた。本人には伏せられ「幽門潰瘍」と伝えられていた。手術から1年、殿堂入りから3カ月後の3月5日、息を引き取った。57歳と4日の生涯だった。

 この日、阪神の第11回若林忠志賞の発表があった。大賞は原口文仁だった。26歳という若さで発症した大腸がんに打ち勝ってプレーする姿は人びとに勇気や希望を与えてきた。がんの早期発見・早期治療の重要性を啓発する活動、小児がんケア施設の訪問、安打や打点数に応じた寄付……などの活動を行っている。

 若林の次男・忠晴(83)は「若林忠志賞が原口選手に贈られるとのこと。胃がんで亡くなった父も喜んでいると思います」とメールが届いた。「原口選手を父は天国で応援していることでしょう。ファンを大切にし、心を配っていたことがタイガースの若い選手に理解されていることをきっと喜んでいます」

 戦後、身銭を切ってファンサービスや慈善活動に尽くした若林はプロ野球選手の社会貢献活動の先駆けだった。

 手術を受ける直前にも別府市の児童養護施設「光の園白菊寮」を訪問している。忠晴のもとに「若林のおじさんへ」と園児から届いたお礼の手紙が残る。土産のりんごがおいしかったこと、一緒に遊び、話したりした思い出がつづられている。

 忠晴が懇意にしていた元コミッショナー、根来泰周は「社会貢献こそプロ野球の生きる道」と説いていた。その手本、先人として若林があった。

 生家が浄土真宗本願寺派の末寺で僧侶でもあった。同派の講演で「戦後は貧しかった。しかし空は青く、将来に向かって羽ばたける希望があった」と語っている。「今はどんよりと曇っている。この厚い雲を払いたい。その唯一の方法は他を思いやる気持ち、社会奉仕をする気持ち、これらの積み重ねではないか」

 根来も鬼籍に入って9年。今ごろは若林とともに、選手の意識の高まりを喜んでいることだろう。 =敬称略=
 (編集委員)

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