【藤川球児物語(5)】小学校時代の恩師・元谷氏の厳しい指導が野球人生の礎に

[ 2020年11月17日 10:00 ]

小学3年時に、兄・順一さん(右)とよさこい祭りを楽しむ藤川

 目の前に広がる太平洋、そして温暖な気候に恵まれた高知でノビノビと育った少年時代。だが、藤川球児を苦しめたものがあった。アレルギー性の小児ぜんそくだ。

 夜間から早朝にかけて襲ってくる発作。母・文子は、そのたびに「もうちょっと我慢してね」と言いながら、近くの医院まで連れて行き、酸素を吸入させなければならなかった。

 体を鍛えるために、まず始めたのが柔道だった。だが、受け身の練習ばかりで面白くない。となると、父・昭一が好きな野球にどうしても興味が向く。「野球がやりたい」と訴えると、父は「それなら順一と一緒に甲子園を目指せ」と認めてくれた。小高坂(こだかさ)小3年の時に、兄とともに軟式野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」に加わった。野球人生の始まりだった。

 監督・元谷謙二の指導は厳しかった。野球は大好きだったが、厳しい練習に耐えるということは、同時にぜんそくの苦しみに耐えることでもあった。初めのポジションは遊撃手。ある日、ノックを受けている最中に発作が始まった。息苦しさで涙を流しながらボールを追った記憶もある。「小学校の練習が一番つらかった。中学、高校の練習に耐えられたのは、あの苦しい経験があったから」が藤川の思い出だ。

 元谷監督の厳しい指導も、そのセンスを見抜いたからこそだった。「キャッチボールの腕の振りをひと目見て、この子はプロに行ける逸材だと確信しました。それでお母さんにも“信じて任せてください”と言ったんです」。内野で鍛えたのも基礎体力をしっかりつけるためだった。

 4年時には初めて兄弟バッテリーが実現した。自己中心的な投球をすれば厳しく注意されながらも、才能は徐々に開花していった。4年の終わりにはエースの座を奪い、6年の時には高知県大会で優勝した。「プロ野球の選手になる」――。夢も見えてきた。  =敬称略=

続きを表示

2020年11月17日のニュース