45年前に存在した幻の日本代表 監督は森徹氏 その壮大な計画とは

[ 2014年2月16日 07:19 ]

中日選手時代の森徹氏=1960年3月

 去る2月6日、全国野球振興会理事長の森徹氏が、肝細胞がんのため死去した。早稲田大学、そして中日ドラゴンズで4番を務めた強打者だった森氏は、たった1年で消滅した幻のリーグに“日本代表監督”として参加していたことがある。

 米国人のウォルター・J・ディルベックなる人物が、世界規模の新たな野球リーグを立ち上げようと計画した。その名は壮大にも「グローバル・リーグ」と名付けられた。そして1969(昭和44)年、カイザー田中氏(元阪神)を通じて、前年限りで引退していた森氏の元に参加のオファーが届いたのだった。

 その壮大な計画を聞いた森氏は、自らが完全燃焼しての現役引退ではなかった事もあり、その計画に賛同。日本代表チーム「ハポン・デ・トキオ」を結成し、元プロ野球選手らをメンバーに加え、日本代表チームの選手兼監督に就任した。

 森氏は生前、当時を振り返ってこう語っている。「将来的には日本から2チーム作る予定だった。そうすると少なくとも50人以上の日本人選手が必要になり、プロを辞めた選手やこれからプロを目指す選手、大リーグを目指す選手たちの受け皿になる可能性があった。そういう意味もあってね。どうしても成功させたかった」。

 夢は壮大だが、どことなく怪しいこの話、当初から資金面などでゴタゴタがあったそうだ。しかし、なんとか4月24日に開幕にこぎつけた。日本代表チームのほか、アラバマ・ワイルドキャッツ、ニュージャージー・タイタンズ、ドミニカ・シャークス、ベネズエラ・オイラーズ、プエルトリコ・サンファンズと、総勢5カ国6チームが参加。ベネズエラのカラカス球場を中心にリーグ戦が行われた。

 開幕戦で日本はベネズエラと対戦し0―6で敗れたものの、球場には2万5千人のファンが詰めかけたという。しかしながら、シーズンが進むにつれて観客は激減。酷いときには100人以下という試合もあったそうだ。6月にはプエルトリコ、ドミニカの2チームが資金難を理由に解散。その後は日本チームもホテルに宿泊する資金もなくなり、食料もままならず各地を転戦。流浪の旅の果てに、とうとう日本大使館が救出の手を差しのべ、9月12日に日本チームはやっと帰国できた。そして遂には創設者のディルベックも雲隠れし、たった1年で「グローバル・リーグ」は幕を閉じたのだった。

 日本チームは通算11試合を戦い、7勝3敗1分と世界を相手に大健闘をみせた。「わずかな試合数だったけどよく戦った。勇敢だったよ、みんな」と語った森氏はリーグ解散後、選手たちを無事に帰国させるためにあらゆる手を尽くし、契約関係なしに選手の面倒を見たという。チーム結成時から最後まで選手を守り、グローバル・リーグの成功を夢見て奮闘。果てはプロ野球選手の将来までを考慮していた森氏のチャレンジ精神は、記憶に留めておくべきだ。日本球界はまたひとり、偉大な先駆者を失ってしまった。(スマホマガジン『週刊野球太郎』編集部)

 ※参考文献/『野球小僧』(2005年10月号)「伝説のプロ野球選手に会いに行く」(取材・文 高橋安幸)

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