バット作りの匠も感心 松井氏の素振りは落合氏と同じ音がした

[ 2013年1月9日 13:38 ]

ヤンキース在籍時の02年11月、久保田氏の横でバットの製作過程を確認する

 名人の耳には、「ブンッ」という鋭い音が今でも残っている。93年の巨人入団から20年近く、松井の「相棒」であるバットを作り続けてきたミズノテクニクスの久保田五十一(いそかず)さん(69)。03年に厚生労働相から「現代の名工」に認定された名人は、「松井選手がバットで空気を切る音…。ゆっくりと振るんですが、切れがいいんです」と振り返る。

 その音は、ある大打者とうり二つだったという。松井は入団4年目の96年オフ、ミズノの岐阜県養老町のバット工場を訪れ、久保田さんにこう言った。「落合さんのバットが見てみたいんです」。3度の3冠王に輝いた落合博満(前中日監督)。芯とグリップを結ぶ部分を見た松井は「細いですね…」と感想を漏らした。「バットの中心部分、真ん中が細いバットは“しなり”が出るんです。それが落合さんのバットでした」と久保田さん。本人の要望を受け、数年かけて少しずつ中心部分を削りながら「落合モデル」のバットに近づけていった。そして出来上がったものを手に、松井が素振りをする。「その音のトーンが非常に似ていた。同じ人が振っているのかと思いました」。2人の大打者は、バットを通じて邂逅(かいこう)していた。

 出会いは92年12月。巨人入団発表の前日だった。松井が母校の星稜・山下智茂監督とともに養老工場にやってきた。「手を見たら素振りのタコ、まめだらけでした」と久保田さん。そこから二人三脚がスタート。秋山幸二(ソフトバンク監督)のモデルを参考にするなど、毎年のように微調整を繰り返した。松井もオフには必ず工場に足を運んだ。50年近く、イチロー(ヤンキース)ら毎年150~200人のバットを作り続けてきた名人は言う。「松井選手は、シーズン中から常に“最適なもの”を考えていた。こちらが相談するのではなく、本人からキチッと方向性を出してくれました」。道具へのこだわり。そんなスラッガーの思いに、久保田さんは応えてきた。

 「いい選手に巡り合えた。お手伝いする機会があって幸せでした」。日米通算507本塁打。久保田さんは、球史に残るスラッガーを「匠(たくみ)」として支え続けた。

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2013年1月9日のニュース