思いは晴るる身は捨つる…ボクサーと引退
【鈴木誠治の我田引用】プロボクシングの長谷川穂積選手が、9月16日のWBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチでTKO勝ちして、3階級制覇を達成した。35歳9カ月での世界王座奪取は、日本人最年長記録だという。
「勝てないと思っていたけど、よく頑張ったよね」
わたしは、女勝負師のスゥちゃんに話し掛けた。バンタム級で世界王座を獲ったのが11年前。10度防衛後に陥落し、フェザー級で2階級制覇したのが6年半前。その初防衛戦に敗れてから5年半がたっている。
「負ければ引退って試合前に言っていたけど、まさに背水の陣で踏ん張った感じだよね」
長谷川選手は、歴戦のダメージの蓄積で体を心配する家族の反対もあって、勝っても引退する可能性があると言われている。
「もう引退してもいいと思うけどなあ…」
そう言うと、スゥちゃんが聞いてきた。
「あしたのジョーは、生きていると思う?死んだと思う?」
矢吹丈は、ホセ・メンドーサとの激闘を終え、「真っ白な灰」になった。判定の結果を聞く前に、柔らかな表情でイスの上で目を閉じた。ジョーはリング上で死んだのかどうか、答えは永遠にわからない。
「わたしは死んだと思う。燃え尽きたと思えたから、ジョーは勝ちも負けも関係なく、安心して死んだと思うの。残酷だけど、ボクシングって、そういう格闘技のような気がするわ」
あら楽し思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし
赤穂浪士の大石内蔵助が、泉岳寺で詠んだ辞世とされる。仇討ちを果たし、処刑を待つ身を「楽し」と表現した。思い残すことは、何もないと。
ジョーにとっては、勝敗よりも「燃え尽きたかどうか」が大事だった。長谷川選手は、試合前にすでに十分な実績を残していた。しかも、世界王座から離れた5年半の間には、目に見えてスピードが落ち、打たれもろい姿も見せて、限界とも言われた。今回の世界挑戦で勝てると思った人は、少なかっただろう。
それでもなぜ、現役を続けたのか。スゥちゃんはこんな話をした。
「どんなスポーツでも、燃え尽きたと思える試合をするのは難しいし、試合直後に燃え尽きたと思っても、時間がたてば、やっぱり、もっとできると思ってしまうんじゃないかしら」
わたしはうなずいた。
「でも、ボクシングでそれをすると、体が壊れちゃう…」
スゥちゃんは、表情を暗くした。やっぱり引退したほうがいいと、あらためて思ったわたしは、作家の坂口安吾氏が「堕落論」の中で、赤穂浪士について書いた一節を思い出した。
「四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな」
現役を続けることは決して生き恥ではない。ただ、長谷川選手が、ボロボロになる姿は見たくない。坂口安吾氏はこう続けている。
「美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情の一つのようだ」
◆鈴木 誠治(すずき・せいじ)1966年、静岡県浜松市生まれ。立大卒。ボクシング、ラグビー、サッカー、五輪を担当。軟式野球をしていたが、ボクシングおたくとしてスポニチに入社し、現在はバドミントンに熱中。
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