八村の“今、そこにいる確率”は超ミクロ! NBA4強入りに見え隠れする奇跡の数値

[ 2023年5月15日 08:19 ]

レイカーズの一員として西地区決勝シリーズに出場する八村塁(AP)
Photo By AP

 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】NBAの全30チームのうち、すでに26チームが今季の全日程を終えている。残っているのは東西地区決勝に進出したセルティクス、ヒート、ナゲッツ、レイカーズの4チーム。今季各チームに登録された選手は500人を超えているが、現時点でユニフォームを着てベンチに座っていられるのは13人×4で52人しかいない。つまり4強になるまでの“生存確率”は1割だが、その中に日本人選手の八村塁(25)が入っている。そして最初の“算数”で得た確率を10%としよう。

 八村がゴンザガ大からNBAのドラフトで全体9番目にウィザーズに指名されたのは2019年。2巡目までに計60人が指名されている。しかし今、最後の4チームの中にいるドラフト同期生は、全体13番目に指名されたヒートのタイラー・ヒーロ(23)と22番目に指名されたセルティクスのグラント・ウィリアムス(24)を含めて3人。ただしヒーロは手首を手術したので東地区決勝には出られそうにない。すると同期の中で現在もなおプレーができるのは八村とウィリアムスだけ。60人の中で2人しかいない“サバイバー”だ。だから2つ目の確率は60分の2で3・33%になる。

 もう少し算数をやってみよう。NBAに入れるのは、全米大学協会(NCAA)の同学年のわずか1・2%。そのNCAAに入れるのは高校の全選手の3・5%なので、2つを掛け合わせると3つ目の確率は0・042%。今季の地区決勝にたどりつく前に、すでに八村は恐ろしいほどに狭き門をくぐりぬけている。

 そもそも1946年にBAAとして誕生したNBAに在籍した日本人選手は八村と、渡辺雄太(現ネッツ)と、田臥勇太(元サンズ)の3人だけ。73年間で3人しか存在しなかったのだから24・3年に1人しか出現しなかったことになる。もし任意の年度を1つ選ぶと、そこに日本人が居合わせる4つ目の確率は4・1%。大リーグではすでに59人の日本人選手がプレーしているが、NBAでは“密度”が無いに等しい。そんな超少数派の国からやってきた選手が今、バスケットボールの世界最高峰リーグの4強の中に入ってベンチ入り(アクティブ・ロースター)の計52人の中に入っているのである。

 八村がまだウィザーズに在籍していたころ、レイカーズは今季開幕から5連敗を喫し、12試合を終えた段階では2勝10敗。出遅れが響いてレギュラーシーズン82試合を終えた段階で西地区全体の7位(43勝29敗)だった。7~10位の4チームでプレーオフの残り2枠を争うプレーイン・トーナメントの初戦(相手は8位のティンバーウルブス)に勝って第7シードの座を確保したものの、プレーオフが12チームから16チームに増えた1984年以降、このポジションから地区決勝に勝ち進んだのは1987年のスーパーソニックス(現サンダー)だけ。過去39年間、東西第7シードの計78チームが挑戦してたった1回しか成し遂げていないので、レイカーズは1・2%という突破確率と直面していたのである。そしてこれを5つ目の確率としよう。

 すると八村の周囲でちらついている1つ目から4つ目までのわずかな確率は、レイカーズが向かい会っていた5つ目の小さな数値とリンクする。

 10%、3・33%、0・042%、4・1%、1・2%…。八村が「今、そこにいる確率」はこれを足せばいいのか、掛ければいいのか、それとも足して割ればいいのか私にはわからない。ただし、もし第7シードとして初のファイナル進出をレイカーズが達成すると、八村は確実にNBAでは天文学的な確率を持つ唯一無二の選手になることだけは確かだ。実はすでにそうなっているとも言えるのだが、私はぜひその先も見てみたい。

 第1シードのナゲッツと第7シードのレイカーズが顔を合わせる西地区決勝シリーズは日本時間の17日にスタート。過去のプレーオフではナゲッツに7回のシリーズすべてに勝っているレイカーズだけに(この部分の確率は100%)、たとえ第7シードであっても勝機はあると見ている。しかもレイカーズはミネアポリス時代(1948~59年シーズン)を含め、ファイナル進出を決める過去41回の戦いでは(1950年はNBA準決勝という名のシリーズ)、ディビジョン制で18回中13回、カンファレンス制で23回中19回シリーズを制覇。ここまでたどり着くと“突破確率”は78・0%にまで跳ね上がっている。

 八村が持つ超ミクロの確率と、レイカーズに見え隠れしている「小」と「大」の2種類の確率。ここから先は計算できないし、答えも出てこない。しかしバスケットボールに携わるすべての人とすべてのファンの方々と同様、私も背番号28のさらなる奮闘と活躍を心から願っている。

 レイカーズにはもうひとつ、チームの存亡に関わった“奇跡”がある。すでにこのコラムなどでも紹介したのだが、これを忘れるわけにはいかない。

 1960年1月8日。ミズーリ州セントルイスでホークス戦を終えたレイカーズは当時本拠を置いていたミネソタ州ミネアポリスに向かって、中古の貨物機(DC―3)を改造した専用機に乗って飛び立った。しかしすぐに電気系統が故障。コンパスさえも使えなくなって夜空をさまよった。ハイウェーに不時着しようとしたものの強風で断念。セントルイスに引き返すのは大都市への墜落という惨事を引き起こす可能性もあったので、これも選択肢から外れたようだ。

 万事休す。しかしコックピットで窓を開けて北の方角を見極めるために北極星を探していた当時36歳のハロルド・ギフォード副操縦士が名案を思いつく。バーン・ウルバン機長に「私の実家は農家です。それでひらめきました。道路は危険ですが、そこならばこの時期には雪がクッションになって着陸できるかもしれません」。そして不時着したのはアイオワ州キャロルという小さな町のトウモロコシ畑だった。

 ギフォード副操縦士の言葉通り、そこは白銀の世界。レイカーズの選手とスタッフを乗せたDC―3はトウモロコシ畑に2度、3度とバウンドしながらも不時着し、全員が無事だった。もしこの機転の利いたとっさの判断がなければ、そこで当時のレイカーズは選手とコーチ、さらにオーナーを除くフロント陣を失いチームは崩壊。チームの歴史は間違いなくそこで途絶えていた。

 キャロル・デイリー・タイムズ・ヘラルド紙はこの出来事を1面トップで報道。畑の中に飛行機があるという異様で不自然な?写真はその後、NBAの歴史を語る上で重要な1枚となった。

 1面の見出しは「23人を乗せた飛行機がキャロルのトウモロコシ畑に無事に着陸」だった。副題に「プロ選手」という言葉が見えるが、どこにも「LAKERS」という文字はない。今では信じられないかもしれないが、これが当時のNBAに対する社会における“認知度”でもあった。

 2023年1月13日、レイカーズを救ったギフォード副操縦士はミネソタ州セントポール郊外のウッドベリーで死去。99歳だった。それからちょうど4カ月後にレイカーズが西地区決勝へ進出。レブロン・ジェームズ(38)も八村もある意味、ギフォード操縦士があのときあのDC―3のコックピットにいたからこそ「今、そこにいる」のだと思う。

 雪のトウモロコシ畑への不時着から63年。その“救世主”が旅立った年にレイカーズは第7シードから快進撃を見せている。私にはまだギフォード副操縦士が天国からレイカーズの背中を押し続けているような気がしてならない。

 63年前に消滅していたかもしれないプロ・バスケットボールのチームのユニフォームを、日本人選手が身につけて第7シードから西地区決勝までたどりついた長い長い道のり。もう確率は計算不能だし「奇跡」という言葉でも説明がつかない。その運命的な出来事をかみしめて、ナゲッツ戦を見守りたいと思う。
 
 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった20238年の東京マラソンは5時間35分で完走。

続きを表示

「羽生結弦」特集記事

「テニス」特集記事

2023年5月15日のニュース