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岡野俊一郎さん死去 東大出身FW、日本サッカー支え半世紀

[ 2017年2月4日 05:30 ]

98年、トルシエ氏(右)が日本代表の監督に就任し、握手をかわす岡野俊一郎さん
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 日本サッカー協会相談役の岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)氏が2日午後10時56分、肺がんのために都内の病院で死去した。85歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男、大介(だいすけ)氏。日本代表コーチとして68年メキシコ五輪銅メダルに貢献し、98〜02年には日本協会会長を務めて02年W杯日韓大会の成功に尽力。90〜11年に国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めるなどスポーツ界に多大な功績を残した。

 関係者によると、岡野氏は肺がんを患う中、昨年9月下旬に尾てい骨を骨折して入院。昨年末に一度は退院したが、入院生活で急激に体力が衰えて痩せ細り、年明けから再入院していたという。02年に胃がんが見つかり手術。12年のロンドン五輪後に肺がんを発症後も4年以上、病魔と闘ってきたが、ついに帰らぬ人となった。

 岡野氏は小石川高から東大に入学。英語とドイツ語が堪能で68年メキシコ五輪では日本代表コーチ兼通訳として、ドイツ人のクラマー・コーチとチームの橋渡しとなり銅メダルに貢献した。69〜71年には日本代表監督。98〜02年には日本協会会長を務めて、02年W杯日韓大会の招致と成功に尽力した。68年からは当時、国内唯一のサッカー番組だったテレビ東京(当時東京12チャンネル)の「三菱ダイヤモンドサッカー」に20年間出演。技術や戦術だけでなく、海外の歴史や土地柄など、豊富な知識を生かした解説でサッカーの魅力や価値を伝え情報発信にも努めた。

 活躍の場はサッカー界にとどまらなかった。90〜11年にはIOC委員を務め、98年長野五輪招致に尽力。スポーツはアマチュアリズムの理念を失うべきではない、との意見が多数を占めた時代に、商業主義的な運営の利点に目を向け、89年に日本体育協会から日本オリンピック委員会(JOC)を独立させた功労者でもある。文京区の教育委員や日体大の顧問、全国ラジオ体操連盟会長も務め、国民健康増進などの分野でも貢献。12年にはサッカー界から初となる文化功労者に選ばれた。東京・上野にある1873年(明6)創業の和菓子店「岡埜栄泉」の5代目だが、甘い物が苦手だったことでも知られる。

 昨年11月下旬に岡野氏は日本協会の田嶋幸三会長を病室に呼び、サッカー界の過去や未来について約1時間熱弁した。くしくも月命日はメキシコ五輪で監督としてコンビを組んだ長沼健氏、もう1人のコーチ平木隆三氏と同じ。長沼氏は08年6月2日に、平木氏は09年1月2日にともに77歳で亡くなった。田嶋会長は「(病室で)本当にいろいろなお話を伺いましたが、ご自分の死期を意識されているような話しぶりで、一抹の寂しさを感じました」と回想。「今頃、クラマーさん、長沼さん、平木さんと天国で会っているのかもしれません」とコメントした。1月15日には日本サッカーのプロ化に尽力した木之本興三氏(享年68)が亡くなったばかり。日本サッカーの重鎮が、また1人、この世を去った。

 ▼岡野 俊一郎(おかの・しゅんいちろう)1931年(昭6)8月28日、東京生まれ。終戦直前、都立五中(都立小石川高、現都立小石川中等教育学校)に進学、サッカーに出合う。東大でセンターフォワードとして活躍し東京、メキシコ両五輪のコーチや日本代表監督を歴任した。退任後は体協理事、JOC総務主事、IOC委員、第9代日本サッカー協会会長などを務めた。05年日本サッカー殿堂入り。JR上野駅前の老舗和菓子店・岡埜栄泉の5代目。

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