【藤川球児物語(17)】04年新フォームで飛躍「JFK」へ整った

[ 2020年11月29日 10:00 ]

04年9月11日、シーズン2勝目を挙げ、ナインに祝福される藤川

 藤川球児は04年、変わった。2軍投手コーチ・山口高志の「上から叩くように」とアドバイスを受け、取り組んだ新フォーム。投げ込んでも、痛みや違和感を感じないというのが、何よりの収穫になった。

 それまでずっとコンディション作りに苦しんできた。投げ込みをした翌日が怖かった。だが、もう不安を抱えずに済む。思い切って、腕も振れるようになった。代名詞となる「火の玉」に一歩一歩近づいていた。

 監督・岡田彰布にも報告は上がっていた。元々「短いイニングなら使える」と2軍監督時代から見ていた。04年夏にはアテネ五輪のため、安藤優也が日本代表に、ジェフ・ウィリアムスが豪州代表としてチームを離れることが決まっていた。リリーフの補充をしなければならない。ウエスタンで4試合に登板した藤川は7月27日に1軍に合流した。

 昇格と同時に、チャンスを岡田は与えた。27日の中日戦(甲子園)でいきなり3連投で起用した。28日の試合だった。延長11回に安藤が決勝点を失い、なおも無死一、二塁で藤川がマウンドに上がる。柳沢裕一、代打・谷繁元信、そして荒木雅博を3連続空振り三振。敗戦の中で強い印象を首脳陣に残した。

 中日戦3連投を含む合流からの8試合登板で自責は0。金本知憲が701試合連続フルイニング出場の日本新記録を達成した8月1日の巨人戦(甲子園)でもペタジーニ、阿部慎之助らから2回で3奪三振。「低めに投げた結果。あそこに投げないと意味がない」と藤川も手応えを感じた。

 故障歴を知るトレーナーから「無理な使い方はさせない方がいい」との声も出たが、痛みも疲労もなく夏を乗り切った。9月11日の横浜戦(横浜)では5回1死満塁のピンチをウッズ三ゴロ、多村仁志を二ゴロで流れを切り、シーズン2勝目。岡田も「負けてる展開で球児は使えない」と認めた。オフの契約更改では42%増の2200万円で更改。「JFK」の舞台は整った。 =敬称略=

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2020年11月29日のニュース