【タテジマへの道】高山俊編<下>安打記録支えた“師弟関係”

[ 2020年5月2日 15:00 ]

11年夏、智弁和歌山戦で適時三塁打を放つ日大三・高山

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。いま甲子園で躍動する若虎たちはどのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。今日は、15年ドラフトで1位指名された高山俊編(下)を配信する。

 俊の両親は「あの時は…」と口をそろえた。父・辰男さんが「何も言わなかったけど、一番苦しかったと思う」と言えば、母・由美子さんも「ずっと怖い顔をしていました」と思い起こした。高校2年生の春から夏は苦悩の日々だった。

 日大三入学後、1年の秋から外野のレギュラーに定着。名門校の1番打者を任され、秋の東京大会や関東大会でも活躍。翌春の日大三の選抜出場に貢献した。重圧を背負い始めたのは、念願の春の甲子園大会に向けて練習試合が解禁された3月上旬だった。

 ある練習試合の初回。先頭打者の俊が凡退してベンチへ戻ると小倉監督からの怒声が待っていた。「何をしとるんだ! 何だあのスイングは!」。求める理想が高くなったことで、小倉監督は厳しく俊に接した。

 「うちは初回の先頭打者の役割にこだわる。スカッとするようなスイングで塁に出てリズムをつくるか、凡退するか。そこを強く指導した。打っても打っても『まだ足りない』と言い続けた」
 日大三の“象徴的”な打順を任されたことで、普段から上級生よりも厳しい言葉を数多く向けられた。「あいつならできる」。期待の裏返しを真正面から受け止めることは1年生には酷だったのかもしれない。もちろん、俊は応えようと必死だった。全体練習後も居残りでひたすらバットを振り、復調のきっかけを探した。それでも、浮上のきっかけはなかなか見つからない。1年生の終わりには絶対的レギュラーの座を失い、代打として出番を待つ身となった。

 試練を与えた小倉監督にとっても心苦しい日々だった。「本当ならもうちょっと待って使っていれば打っていたのかもしれない。でも、目の前の試合に勝たないといけない。そういう意味で本人も苦しんだと思う」。代打で実戦を重ねながらはい上がり、レギュラーを奪い返して10年春の選抜大会を迎えた。

 ところが本番でまた調子を落とす。準決勝までの4試合で15打数2安打。迎えた興南との決勝戦で先発オーダーに「高山俊」の名前はなかった。ベンチから戦況を見つめ、声を枯らした。延長12回までもつれ込んだ激戦は5―10で惜敗。大舞台での不振が尾を引いたのか、以降も復調の兆しは見られず、2年夏も代打に甘んじ、西東京大会はベスト4で敗退した。さまざまな悔いの念は、俊の大きな原動力となった。「あの頃、あの子自身がいろいろと変わっていったと思う」。成長を見守り続けた小倉監督は振り返った。先輩たちが卒部し、俊は最上級生へ。雌伏の時を経て逆襲が始まった。

 日大三2年春の選抜から不振に陥った俊は「どうすればいいのか。どうやればレギュラーで試合に出られるのか、全くわからなくなっていました。振り返っても悔しいの一言しか出て来ない」と当時の苦悩を振り返る。

 ただ、ひたすらにバットを振り続け、本来の姿を取り戻していった。秋季東京大会では右翼のレギュラーとして打率・432で4本塁打。明治神宮大会優勝にも貢献した。3年春の選抜では1番打者として全4試合で安打を放ち17打数9安打、打率・529。全国で実力を証明し、チームを4強に導いた。

 そして迎えた3年夏。打順はそれまでの1番から5番に。西東京大会を順当に勝ち抜き2季連続の甲子園へ駒を進めた。優勝候補筆頭らしく順調に勝ち上がり、光星学院(現八戸学院光星)との決勝戦で、俊は生涯忘れることが出来ない一撃を放った。

 「あの試合が一番、これまでの野球人生で思い出に残っています。ホームランを打った後の光景は本当に忘れられない」

 2011年8月20日。4万7000人を集めた甲子園で誰よりも視線を集めた。0―0の3回2死一、二塁、お手本のような放物線は、そのままバックスクリーンへ飛び込んだ。決勝の先制3ラン。「普段はガッツポーズとかするタイプではないんですけどね」と話す俊も思わず、拳を突き上げ、雄叫びを上げた。大きな拍手と歓声の中、ダイヤモンドを一周。「ホームランを打ったことはもちろん嬉しかったですけど、それよりもあの歓声。本当にすごかったですね」と当時を思い出し、また興奮した。

 父・辰雄さんが「本当にやってくれた。ウチの息子ながらすごいなと。1人の野球選手として、息子として、よくやったと思います」と歓喜の瞬間を思い起こせば、母・由美子さんも「2年生の時に苦しんでいたから、最後の最後にああやってホームランを打ってくれて。打った瞬間は前の人が立ち上がって見えなかったんですけど、感激したし頑張ってきて良かったと思いました」と隙間から息子の勇姿を確認した当時を振り返った。

 その試合5打点の活躍で日本一を掴んだ。日大三の小倉全由監督は「あの(本塁打の)打球もさることながら、その後の打席で放った痛烈なピッチャー返しも素晴らしかった。あのスイングを高校生で出来る子が他にいるのかな、と。鮮明に覚えていますよ」と決勝での俊のスイングを今でも絶賛する。

 無名のシニアから日大三に進み、最後の夏は26打数13安打の打率・500で全国制覇を成し遂げた。プロ志望届を出さず、東京六大学でのプレーを強く希望し明大に進学。ここで俊の野球人生は、さらに大きく花開く。

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 甲子園優勝という実績を引っさげて入部した明大の練習初日を、善波達也監督は鮮明に覚えている。「振れる力はすごいなという印象。頭一つ抜けていた」。春のオープン戦は代打でアピールを重ね、1年春のリーグ戦からメンバー入り。「あのときはレギュラーとしてのメンバー入りではなかったと思う。チャンスがあったら使えるかな、というところですよ」。しかし、指揮官の思惑は良い意味で裏切られる。

 初出場は2012年4月15日の春季リーグ・東大戦。7回に投手の山崎福(現オリックス)の代打で一、二塁間を破る右前打。後に東京六大学の新記録を打ち破る最初の1本だった。この試合で3打数2安打。そして、レギュラー争いに割って入っていった。

 「それでもスタメンで使うとしょうもないミスが多くて。次の試合で代打で使うと、これがまた打ってね(笑い)」と善波監督。主に右翼、中堅で13試合に出場し、リーグトップとなる20安打をマークした。打率・417で1年生でベストナイン。同監督は「20本を8シーズンで掛けるとすごい数字になる」とは思ったものの、「大学野球が盛り上がってくれれば良いな…ぐらいにしか考えていなかった」と話す。明大OBの高田繁氏が持つ通算127安打は、まだ現実味はなかった。

 当時は「バットを折ればヒットを打つ」と揶揄(やゆ)されていた。本人も「確かによく折ってましたね」と苦笑いを浮かべる。善波監督は分析する。「金属バット打ちというか、力があるから、折られてもポテンヒットになるんです」。秋季リーグは14試合で16安打。1年目は計36本で終えた。

 2年生では相手の攻めも厳しくなり、対応に苦しんだ。同監督はひたすらバットを振らせた。朝の練習が終わり、生徒たちが授業へと出発する中、俊ら数人を呼び止めて居残りでのティー打撃練習を連日のように課した。「これが終わるまで授業行ったらダメだよ」。500球ものボールをがむしゃらに打ち込み続けた。「オレ絶対この人にいじめられてる…」。当時2年生の俊は、その真意を知るよしもなかった。

 「高山はそこまで練習を必死にするタイプではなかった。淡々にこなすというか。やっぱり周りにも認められるぐらい、必死に取り組んでいるやつを試合に使いたかったし、そのために高山には厳しくやらせたんです。もちろん高山1人ではなく、毎回何人かにやらせるんですけど、必ず高山をそのメンバーに入れていましたね」

 打撃技術は確実に磨かれていった。2年生は年間26本で計62本。単純計算で127安打に届かないペースだったが、3年春のシーズンが始まる直前に善波監督は俊に伝えた。「通算安打記録狙ってみるか」。俊は力強くうなずいた。挑戦が始まった瞬間だった。

 目標は定まった。3年へ進級する際、善波監督はある提案を持ちかける。「初心に帰ると言う意味で、1年の時の(背番号)38に戻したらどうだ」。2年時に背番号9を背負っていたが、変更にためらいはなかった。それから数日後、俊は監督にこう話しかけた。「監督、年間38本打つと、ちょうど100本になりますよ!」。自分自身で背番号に意味を見いだしたのだ。

 そうして臨んだ3年の春季リーグで19安打を記録。秋季リーグ開幕前にまた“背番号会議”を開く。「19はピッチャーの背番号になっちゃうよな」と難儀する監督に「じゃあ20本で101を目指します」と返答。背番号20で、まずは100安打超えを見据えた。

 4年間で唯一ブレーキがかかったのがこの時だと監督は言う。「99から100になかなか進まない。10何打席もかけてしまってね」。1本が出ずに苦しむ俊に「ここがゴールじゃないだろ。100を意識することはない」とハッパをかけた。足踏みの末、14年10月28日の立大戦で5回に左前打を放ち、史上最速となる3年時での大台到達を果たした。

 最終学年は「1番になる」との思いを込め背番号1で臨んだ。明大OBの高田繁氏の持つ通算安打記録127が迫り「OBやファンの方から“あと何本だね”と毎試合言われるようになりました」と周囲の期待は高まった。それでもプレッシャーに感じることなく、むしろ使命感がこみ上げた。「記録を超えることで、応援、支援してくださる人への恩返しになれば良いなと。何が何でも超えたいと思っていました」。

 当時、俊と監督の合言葉は「ホームラン1本よりヒット3本」。とにかく「H」マークにこだわった。「プレッシャーは感じていなかった。一番充実していたんじゃないかな」と監督が話すように順調に安打を重ねて記録に並び、そして、超えた。10月10日の東大戦、7回に左中間三塁打を放ち、新記録となる128安打目を放った。師弟の4年間に渡る挑戦が実を結んだ。

 それから2週間後。明大野球部のグラウンドには、右手をギプスで固定し、包帯を巻いた姿で練習を見守る俊がいた。18日の慶大戦で右手有鉤(ゆうこう)骨を骨折し、志半ばでチームを離脱したのだ。結局、通算安打は131本で止まった。それでも「これまでの野球人生で一番良いシーズンでした」とすっきりした表情を浮かべる。大記録に挑み、乗り越えた自信と手応えが満ちていた。

 「本当は途中でいろいろと(育成)方針に悩んだんですよ」と善波監督は言う。「ものすごいパワーもあるし、本塁打にこだわれば、打率・250でも20~30本打っていたかもしれないしね。(安打)記録を超えた瞬間は“報われた”という感がありました」。

 そして物語はプロ野球へと続いていく―。阪神・金本新監督から「ホームランを打てる打者になってほしい」と期待されている。大学野球界の安打製造機は長距離打者へと変貌を遂げられるか。俊に迷いはない。「これまでやってきたことを180度変えるという訳ではないと思う。安打記録を目指してやってきた時間も、自分にとっては絶対無駄ではなかった。そういう技術を身につけた上で長距離打者を目指してやっていきたい」。

 日大三高で日本一、明大では通算安打新記録を樹立。大学日本代表にも選出された。経歴だけ見れば輝かしいばかりの野球人生。それでも、その過程は必ずしも易しいものではなかった。「プロで活躍する姿を見せて、そのときそのときできることを全力で。それが、見てくれている人への恩返しになると思うので」。期待してくれる人、見守ってくれる人の思いを背負い、プロ野球の扉を叩く。(2015年10月29日~11月1日付掲載、一部編集 おわり)

 ◆高山 俊(たかやま・しゅん)1993年(平5)4月18日生まれの22歳。小1から野球を始める。七林中では船橋中央シニアに所属。日大三では1年秋からベンチ入り。春夏通算3度甲子園に出場し、2年春準優勝、3年夏に全国制覇。明大では1年春からベンチ入りし、1年春、2年秋、3年春秋、4年春にベストナイン。リーグ通算131安打(24日現在)。1メートル81、86キロ。右投げ左打ち。

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