【内田雅也の追球】「戦時」に学ぶ気構え――戦中も希望を見ていた阪神・若林忠志ら野球人

[ 2020年4月6日 08:00 ]

戦中最後のプロ野球となった1945年の関西正月大会。伊藤利清さんが記した1月3日、猛虎-隼戦のスコアブックには、5回途中「警戒警報発令ノタメ中止」とある
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 疫病禍と戦争を並べて論じるのはどうしても抵抗がある。ただ、米大統領ドナルド・トランプは3月18日(日本時間19日)、「戦時下の大統領だ」と自称し、朝鮮戦争時の国防生産法を発動してマスク増産を指示した。「われわれはこの目に見えない敵を倒す。完全な勝利を収めるだろう」

 日本でも布マスク配布についての批判で「ウイルスと竹やりで戦うようなものだ」と戦時中のようなたとえが聞かれる。

 それほど、新型コロナウイルスは脅威の敵なのだ。土日の繁華街が静まりかえった画像を見れば、何かの映画や戦時のような錯覚を覚える。

 野球界も動きは止まったままだ。では、戦時の野球人はどうだったか?

 戦中のプロ野球は1944(昭和19)年9月の総進軍大会で打ち切られ11月に「一時休止」を発表した。それでも45年1月1日~5日、甲子園と西宮で関西正月大会が行っている。徴兵で選手不足のなか、4球団27人が集まり、阪神・産業で猛虎、阪急・朝日で隼の2チームを編成し、連日ダブルヘッダーを組んでいた。

 大会の模様は阪神ファンで、大阪医専(現大阪大医学部)の学生だった伊藤利清が全試合をスコアブックに記していた。

 伊藤は日記も残しており、元日の甲子園のスタンドには防空ずきんをかぶった約500人が見守り、酒も振る舞われた。試合後、伊藤は旧知の間柄だった阪神・若林忠志をロッカーに訪ねている。金田正泰、門前真佐人らと新年のあいさつを交わし、<どの人も皆にこやかであった>と記している。

 伊藤は学徒動員先の工場に特別休暇をもらっていた。「明日も来ますよ」と言うと、若林から「サボるのか。言いつけるよ。ハハハッ」。笑い合う光景が目に浮かぶ。

 伊藤日記には若林が若手選手に「たとえ球団が解散になっても、練習はしなければいけないよ」と諭す光景もある。

 この大会後、選手たちは再会を約束して別れたが、次回集合の3月14日は前夜からの大阪大空襲でもう野球どころではなかった。それでも、甲子園口の若林宅に門前が訪れ、よくキャッチボールをした。「いつか必ず、また野球ができる日が来ると言ってね。その時間が唯一の楽しみだったなあ」。門前の回顧談が玉置通夫『甲子園球場物語』(文春新書)にある。

 若林はじめ、野球人は戦時でも明るく、希望を失わず、そして練習していた。今に通じる気構えだろう。  =敬称略=
     (編集委員)

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