日米野球外交のキーマン、フランク・オドールとは?

[ 2014年12月3日 10:17 ]

1934年の日米野球でフランク・オドール、久慈次郎が着用したユニフォーム

 先日まで野球ファンを釘付けにした日米野球。「日本プロ野球80周年記念試合」と銘打たれたように、日本のプロ野球は、1934年の日米野球で結成された全日本チームが母体となって、大日本東京野球倶楽部、のちの読売ジャイアンツが誕生したことは有名な話だ。

 その80年前のメジャーリーグ代表といえば、真っ先に挙がる名前はベーブ・ルース。ほかにもルー・ゲーリッグやジミー・フォックスらメジャーを代表する錚々(そうそう)たるメンバーが集結した。といっても、彼らは「メジャーリーグ代表」ではなく、あくまでもアメリカン・リーグのオールスターチームだった。ナショナル・リーグは選手の派遣許可が下りなかったからだ。

 そんな中、ナショナル・リーグのニューヨーク・ジャイアンツから唯一参加したメンバーがいる。その人物の名はフランク・オドール。日本とアメリカの野球外交を語る上で、実はベーブ・ルースよりも重要人物である彼の名前は、ぜひとも覚えておきたい。

◎ベーブ・ルース招聘の窓口

 オドールは、1929年にシーズン254安打(イチロー、ジョージ・シスラーに次ぐ歴代3位)を放つなど、安打製造機として活躍した選手だった。その実績を買われて、1934年の日米野球だけでなく、1931年に行われた日米野球にも参加している。また、選手間の人望も厚かったことから、日米野球でベーブ・ルースを招聘するための交渉窓口として、1933年に単独で日本に招かれたのだ。オドールと読売新聞の鈴木惣太郎らの尽力によって見事、ベーブ・ルースの来日は実現。1934年の日米野球ではオドールは選手ではなく、助監督的な立場で参加を果たした。

◎戦後は「監督」として日米野球に参加

 以降も、オドールと日本野球とのつながりは続く。1935年に大日本東京野球倶楽部がアメリカ遠征をした際もまとめ役として尽力する。その際、アメリカ人にも親しまれるようにと、「東京ジャイアンツ」の愛称を提案したのがオドールだった。由来は、自身も在籍していたニューヨーク・ジャイアンツからである。

 また、オドール自身は1934年限りで現役を引退し、1935年からは3Aのサンフランシスコ・シールズの監督に就任した。シールズといえば、太平洋戦争の影響で開催が断たれていた日米野球が16年ぶりに再開された1949年に、単独で来日したチームである。この時のシールズの監督も、もちろんオドールだった。

 オドールは1951年の日米野球において、今度は全米チームの総監督として来日を果たしている。選手や監督、交渉窓口など、戦前・戦後に渡って日米野球にこれほど尽力した人物はフランク・オドール以外にはいない。8年ぶりの日米野球が盛況で幕を閉じた今こそ、彼の名とその功績をしっかりと認識すべきではないだろうか。(週刊野球太郎編集部)

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