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亀田大毅氏 激動の半生…パフォーマンスの根底にあった「記録より記憶」

[ 2016年3月25日 09:00 ]

2010年9月、WBA世界フライ級タイトルマッチで初防衛に成功し、弾き語りを披露する亀田大毅

 網膜剥離による電撃引退から4カ月。ボクシング亀田3兄弟の次男・大毅氏が激動の半生を振り返る。(1)「パフォーマンス」(2)「運命」(3)「~プロデビュー」(4)「引退」。4つのテーマにまつわるエピソードを約3週間に1度のペースで元2階級制覇王者が自らの言葉で語っていく。1回目は「パフォーマンス」。

 ボクシングで記録を残したいとは思わなかったけど、「あんなやつおったな」って、記憶に残りたいと思った。誰もやったがないことを初めてやったら、批判もある。それまで見たことない行動や発言に賛否あって当然。もちろん、それに対するいい声もある。今までとは違って、女性だったり、ボクシングを知らなかった人の声であったりするから、それまで築かれてきた「輪」が広がる。つまり、新しい声を入れたいのであれば、違うことをやらないといけない。それが亀田家のパフォーマンスだと思う。

 06年1月。俺はプロテストに合格して兄弟でサイパンで合宿をしていた。デビューを前にして親父が「何するの?」と聞いてきた。ボクシングは入場券が高い。試合が終わって「ありがとうございました。また来て下さい」と頭を下げて、一体どれだけの人がお金を払ってまた見に来たいと思うか。それが付き合いだとしても。自分自身、何かをしたいと思っていた。本当にボクシングが好きな人ならまだしも、日本ではそこまでボクシングは人気がない。毎回が好カードなんていうのもあり得ない。

 先にデビューしていたお兄ちゃんの場合は、試合前のパフォーマンス。。俺は試合後だった。お兄ちゃんが中学時代からロックバンドのT―BOLANが好きで「試合で歌ったら来てくれるかも。お前、歌え」と頼まれた。そして、06年2月のデビュー戦でT―BOLANを歌いたかったけど、中継局のTBSに「音源がないから出来ない」と断られた。それだったら、俺が好きなハウンドドッグでいこか、と。デビュー戦は「オンリー ラブ」。それから何回か試合をしたら、歌も注目されてきて、TBSの担当者がT―BOLANを用意してくれた。それが4戦目の「ハート オブ ゴールド」。そこまで有名な曲じゃなかったけど、いい歌だった。

 その時、ボーカルの森友嵐士さんが関係者を通じて会場に見に来てくれて、祝勝会にも顔を出してくれた。ほんまに、うれしかった。その1年後に森友家で歌修行もさせてくれた。夜中の3時に歌っても誰にも文句を言われない本格的なスタジオが地下にあって、1日12時間ぐらい練習しまくった。合宿の3日間は3食付で至れり尽くせりだった。

 あるとき、「俺も曲をつくりたい」と伝えたら「全然できる。とりあえず、ピアノを買え」と言ってくれた。俺は100万円ぐらい出して電子ピアノと録音機とスピーカーを購入した。これまで50曲以上をつくり、自宅の部屋の壁には何枚もの詩を貼り付けた。お気に入りは、自分で作詞作曲した「みんなへ」。10年2月、初めて世界王者になった試合後に、ピアノで弾き語りをした。詩には、内藤戦(07年10月)で科された1年間の謹慎処分中の思いを込めた。

 ♪「自分の弱さを認めず今まで歩いてきた 手に入れたいくつもの幻が残るのは涙だけ」

 実は、音楽プロデューサーの小室哲哉さんにも聴いてもらって「いい歌だね」と太鼓判を押してもらった。2時間ぐらい要して編曲もしてもらった自信作だった。

次回は「運命」。

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2016年3月25日のニュース