堀江翔太 恩師の“自由な育成”島本高時代に培われた独創的プレー リーグワンPO決勝がラストマッチ

[ 2024年5月21日 08:00 ]

(左から)高校時代の堀江(天野さん提供)、引退する堀江へのメッセージを手にする恩師の天野さん

 今季限りで引退するラグビーリーグワン1部埼玉の日本代表フッカー堀江翔太(38)にとって、26日に東京・国立競技場で行われるプレーオフ決勝のBL東京戦が現役最後の試合となる。決戦を前に、W杯に4大会連続で出場したレジェンドに深く関わってきた2人を2回にわたって紹介。初回は、島本高(大阪府)で3年間指導した天野寛之さん(65)が教え子の原点を明かした。

 安定感あるスクラム、類いまれな戦術眼。出番の多い後半、特に接戦の時ほどその存在感は際立つ。バックス並みにパスを操り、スペースがあれば自ら仕掛け、キックも蹴る。「ラスボス」や「クローザー」と形容されるように、その姿はまるで司令塔だ。フロントローとは思えない独創的なプレーの数々は、公立の島本高で培われたと言っていい。堀江を指導した天野さんは型にはめず、大きく育てた。

 「ウオーミングアップは必ずタッチフットをさせました。別に堀江にだけ自由を与えていたわけではありません。第1列だってパスはするし、走るし、キックだって蹴る。練習はそういうところを重視しました。タッチフットはポジションも関係ありませんから」

 元々バスケットボールをしていたこともあり、入部当初から器用な選手だったという。高校時代はNo・8が主戦場だったが、CTBで起用したこともあった。「プレースキッカーもさせたし、PKからのタッチキックもさせました。キックはよく飛びましたよ、パワーがあるから」。高3時は大阪予選決勝で敗れて花園には届かなかったが、ポジションに関係なく多くのスキルを身につけさせたことが今の礎になった。

 ドレッドヘアに、パンツの裾をまくる“ブルマスタイル”も堀江のトレードマークの一つだ。長く生徒指導部長を務めた天野さんの元には批判的な声も届いた。「“あの髪形はええんか?”と、周りの先生方からどれだけ言われましたか(笑い)。ただ、髪の毛を全部編み込むのは奥さんです。そこに夫婦間のコミュニケーションが生まれる。そう言われると、アカンと言えませんよ」。夫婦の大切な時間だと知り、口出しはしなかった。

 18日のプレーオフ準決勝、埼玉―横浜戦。天野さんの次男・寿紀は後半20分から横浜のSHとして出場した。日本最高峰のリーグ、それも決勝を懸けた舞台で教え子と我が子が同じピッチに立った。何とも幸せな時間が流れた。

 全国高校ラグビー大会で総務委員長を長く務めた。近年の花園大会は特にフッカーに好素材が目立つ。堀江の功績と決して無縁ではないだろう。地味なポジションに光を照らしたことを、かつてFW第1列でならした師は誇らしく思っている。「よう頑張った。揺らぐことなくね。山あり谷あり。首や足首のケガもあったし、全部乗り越えてやってきたわけですから。ひとえに彼の頑張り。敬意を表します」とねぎらった。

 ◇堀江 翔太(ほりえ・しょうた)1986年(昭61)1月21日生まれ、大阪府吹田市出身の38歳。小5の時に吹田RSで競技を始め、島本高に進学。帝京大では主将を務めた。08年に三洋電機(現埼玉)入り。ニュージーランド留学後に再加入し、09年11月のカナダ戦で日本代表デビュー。W杯は11年から4大会連続出場し、通算76キャップ。22年シーズンはリーグワンの初代MVPに輝いた。昨年12月に今季限りでの引退を表明。1メートル80、104キロ。ポジションはフッカー。

 ◇天野 寛之(あまの・ひろゆき)1958年(昭33)8月5日生まれ、大阪府吹田市出身の65歳。千里高、筑波大を経て82年に狭山高に保健体育科教諭として赴任。岸和田高、島本高、摂津高での教員生活、ラグビー部指導を経て20年から大阪緑涼高に特任教諭として赴任。全国高校ラグビー大会総務委員長や関西ラグビー協会理事など要職に就き、23年6月1日付で大阪府ラグビー協会会長に就任。現役時はプロップ。家族は夫人と2男1女。次男・寿紀はリーグワン横浜のSH。

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