江夏豊さんが語る45年前の秘話 こだわり続けた先発から救援へ 最初は反発もノムさんの名言で“陥落”

[ 2022年1月19日 16:06 ]

江夏豊氏
Photo By スポニチ

 NPB記録のシーズン401奪三振などで知られる伝説の大投手で、野球解説者の江夏豊さん(73)が16日に放送されたTBSラジオ「日本生命presents石橋貴明のGATE7」(日曜前7・00)にゲスト出演。パーソナリティーを務めるお笑いコンビ「とんねるず」の石橋貴明(60)を相手に現役時代の思い出を語った。

 その中で、1976~77年の南海時代に苦楽をともにし、2020年2月に84歳で亡くなった恩師・野村克也さんとの思い出についても懐かしそうに回想した。選手兼任監督だったノムさんとは当時同じマンションに住んでおり、試合後には毎日のように野村邸で深夜から朝まで野球談議をしていたという江夏さん。その野球観に感銘を受けたノムさんのことは今も尊敬と親しみを込めて「おっさん」と呼ぶが「楽しかったですよ。ほんっとに、もっと時間がほしいぐらいで」と懐かしそうに振り返り、南海在籍2年目の1977年シーズン途中に先発投手からリリーフ投手へ転向した際のことについても明かした。

 先発投手として数々の輝かしい数字を残した後で、救援投手としても次々に金字塔を打ち立てたが、リリーフ転向のきっかけについて、ノムさんの存在は「大きかったですよ」という江夏さん。「人間というのは、自分は、自分の欠点、自分の弱いところ、そういうところを愛すべき人から指摘されると、すごく腹が立つ、悔しい、なにくそと思いますよね。で、野村さんが言ってるのは『お前、もう野球無理やで』と。『もうぼちぼち現役終わることを考えてもいいんじゃないの』っちゅうことを言ってくるわけですよ。(最初は自分も)また言われてるな、と。その時におっさんは『お前はもう30球、40球しか放れないんだから、その30球、40球を生かすためにリリーフやってみないか』っちゅうことを言ってくれたんですよ。だから、自分としては今は肘・肩の故障でその球数しか放れないけど、必ずもう一度元通りになって、元通りとは言わないですけど良くなって、また先発したいというかすかな希望を持っているわけですよ。でも、実際自分で投げてみて分かるじゃないですか。ボールがいかないの。で、その時に『お前は終わりやで』ということを僕に話しかけてきて『でも、生きる道は一つだけある』と。その30球、40球を生かせるポジションだよね。それがリリーフなんだ、と。自分としてはとっても悔しいし、腹立たしいし、イヤな言葉なんですけど、でも、野球を続けるにはもうそれしかないんですよ。イヤだ、そんなことしたくないって言ってると、もう僕の現役生活は終わってしまうんですよ。その時に野村監督は『まだお前、野球やりたいやろ』と。『やるにはこれしかないんだから。我慢してこのポジションを。自分で考えろ』ということをアドバイスしてくれている。(当時の)野村克也といえば4番打者であり、捕手であり、監督ですよ。それはもう監督の立場、捕手の立場、4番打者の状況から僕にそれを言ってくれている。だから僕にとってはとってもありがたいんですけど、なかなか素直にいけない部分で、自分の弱いところをガーンと狙い撃ちされますと、なかなか素直になれない、でも、どっかではありがとうございます、と。自分をまだこの世界でメシ食っていけるようなアドバイスをしてくれているわけですから。自分自身との葛藤ですかね。もう毎日の繰り返しでしたね」とし、リリーフ転向の話を2人で1カ月ほど毎日続ける中で「偶然に出た言葉らしいんですよ。のちのち、おっさんから聞いたんですけど『あれはオレ偶然に出た言葉なんだよな』って」とした上で「『野球界に革命を起こしてみないか』っちゅう言葉を言ったんですよ」と“その瞬間”を明かした。

 「この言葉でぐっと…」と石橋。江夏さんは「僕はいろいろな本を読ませてもらっても幕末維新というのが大好きですから。新しい時代、新しいものを。その時にはまだ分からなかったんですよね、なんのことか。ただ、新しいものにチャレンジできるというアドバイスをいただいて。踏ん切りをつけたと言いますかね。そういういきさつやったんですけどね」としみじみと明かし、改めてノムさんの慧眼に感謝していた。

続きを表示

この記事のフォト

2022年1月19日のニュース