内田雅也が行く 猛虎の地(19) 西宮市・明和病院 42人入院の「アジアかぜ」でV逸

[ 2019年12月27日 08:00 ]

1面トップで「流感に襲われた阪神連敗」と伝える1957年6月6日付スポニチ本紙(大阪本社発行版)
Photo By スポニチ

 【(19)明和病院】

 明和病院(西宮市上鳴尾町)の前身は戦前戦中と戦闘機を製造していた川西航空機(現・新明和工業)の診療所である。

 公式ウェブサイトの院長挨拶(あいさつ)に<川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、「明るくみんなで力を合わせて再起していこう」という大きな夢を込めて昭和20年10月1日、明和病院に改称した>とある。

 戦闘機「紫電改」開発にかけた川西航空機を描いた城山三郎『零(ゼロ)からの栄光』(角川文庫)によると、川西龍三は「和」を好み、工員寮も親和寮、明和寮、工和寮、誠和寮……と和にちなんで名づけていた。戦後、<零からの出発に当たって何より必要なのは、やはり「和」だと感じた。明るく和していくことだと思った>。

 甲子園球場から近い明和病院は阪神もよく使った。ただ、1957(昭和32)年は異常事態だった。5月末からインフルエンザで倒れる選手が続出した。国内で300万人がかかり、死者5700人を出した通称「アジアかぜ」である。

 当時マネジャーの奥井成一は週刊ベースボール誌上での連載『わが40年の告白』に<私の資料では明和病院に入院させた選手はのべ42人にも上っている>と記した。エース・小山正明を欠くなど投手陣が火の車だった。

 6月4日の国鉄(現ヤクルト)戦(川崎)にベンチ入りできたのはわずか15人、投手は3人という惨状だった。同戦から7連敗を喫した。

 当時の規定では登録抹消すると1カ月間は再登録できなかった。奥井は球団代表・戸沢一隆の許可を得て、連盟に「このままではプロの条件である“見せる野球”は到底できません」と応急措置を直訴した。コミッショナーは「流感の被害者続出の臨時措置」として6月6日から30日まで、選手の入れ替えを任意にできるようにした。

 この57年は出直しを誓ったシーズンだった。前年オフ、主将・金田正泰ら主力選手が監督・藤村富美男に退陣を迫った「排斥運動」があった。続投となった藤村の下、心機一転して臨んだ。2月は徳島・蔵本球場で初めてキャンプを張った。松木謙治郎は『タイガースの生いたち』(恒文社)で<合宿生活によって選手間の融和をはかり、チームワークに重点を置いた練習が開始された>と記した。明和病院のように「明るく和していく」構えだった。開幕前3月の阪急との定期戦は連勝でBK杯を手にした。

 シーズンは巨人、中日と三つどもえの展開。阪神は8月31日~9月2日、4日~7日と首位に立ち、最終成績も優勝した巨人に1勝差の2位だった。奮闘しただけに、あのインフルエンザ禍が痛かった。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

2019年12月27日のニュース