【レジェンドの決断 谷佳知2】木村さんの分まで野球人として生き抜く

[ 2015年12月25日 12:00 ]

10年4月24日、木村さんの追悼試合となった広島戦で代打逆転満塁弾を放ち、お立ち台で号泣する谷

 オリックスから新天地の巨人へ。谷は1年目の07年に自己最多141試合に出場し、打率・318、10本塁打、53打点の好成績を残した。幼少から巨人ファンで、憧れていた原監督の下で同年から09年までのリーグ3連覇に貢献。「自分のキャリアで巨人でプレーできたことは大きい。ファンも多かったので“勝たなければ”という重圧も大きかった」と振り返る。

 そして10年、その後の人生にも影響する悲しい別れがあった。09年に37歳の若さで現役引退し、翌10年に1軍内野守備走塁コーチに就任した木村拓也さんが4月2日の広島戦(マツダ)前のシートノック中にくも膜下出血で倒れた。意識不明で広島市内の病院に入院し、5日後に他界。同学年で04年アテネ五輪でもチームメートだった盟友は自身よりも少し早い06年途中にトレードで広島から巨人に移籍していた。

 「境遇が似ていたし、巨人で本当に仲良くさせてもらった。巨人のルールとか何でも教えてもらいました」と感謝する。友情が今後も語り継がれる一本を生んだ。追悼試合となった4月24日の広島戦(東京ドーム)。8回に左中間に決勝の代打逆転満塁弾を放った。感情を表に出さないプレースタイルを貫いてきたベテランも我慢できない。お立ち台で号泣した。

 その後は出場機会が減り、13年オフに自由契約。昨季から復帰したオリックスでも2年間でわずか20試合に終わった。それでも現役にこだわった大きな理由。木村さんが引退した際に掛けられた「俺の分まで長くプレーしてくれ」という言葉だった。死去後、木村さんの故郷・宮崎で自主トレを行い、天国の盟友に元気な姿を見せてきた。

 引退を表明した数日後の9月下旬。福岡で恩師のオリックス・仰木彬元監督の墓参りを終えた谷は、その足で広島に向かった。木村さんの墓前で「俺も引退するよ」と報告した。「生きていたら、“ようやった”と言ってくれると思う。いや、“まだできる”と言われるかな…」。答えを求めるように空を見上げた。10月3日の引退試合(ソフトバンク戦)。本拠地の京セラドームに自主トレでサポートを受けた木村さんの母校・宮崎南高の同級生ら多くの関係者を招待した。7回に代打で登場し、武田の142キロ直球を強振。現役最後の打席で右前へ1928安打目を放ってみせた。

 今後はプロ、アマチュアを問わず、指導者の道を探る。生前の木村さんにこんな言葉も掛けられた。「いつか一緒のチームで指導者をやりたいな」。志半ばで天国に旅立った友の分まで「野球人」として生き抜く。 (山田 忠範)

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