追悼連載~「コービー激動の41年」その76 ブライアントを驚かせたアレンの「病める心」

[ 2020年5月2日 08:15 ]

ヒート時代のレイ・アレン(AP)
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 2010年のファイナル第2戦で、レイカーズ相手に8本の3点シュートを決めたセルティクスのレイ・アレンは1975年7月20日、カリフォルニア州中部、サンノゼの東120キロにあるマーセドという町で生まれた。ヨセミテ国立公園への拠点になっているので、旅をされた方はピンと来るかもしれない。もっと正確に言えば、アレンはこの地に1941年から1995年まで存在したキャッスル空軍基地の中で誕生している。父親が従軍していたために、俗に言う“ミリタリー・キッド”として生を受けたのだった。

 3万人のパイロットを世に送ったキャッスル空軍基地は今、空港となり、航空博物館もある。ただし日本にとっては戦争の傷跡を残している場所。ここには第2次大戦中、カリフォルニア州に住んでいた日系人が捕虜として集められたからである。その数、4669人。国籍は米国でも日系人というだけで生活を奪われ、1942年5月6日から9月15日までこの臨時の収容所で過ごした。その後、コロラド州グラナダにあった大規模な収容所に送られるが、アレンと違って日系人の捕虜だった方にはこの町にいいイメージは抱かないだろう。2005年にはカリフォルニア大10番目のキャンパスとなるマーセド校が開校。すっかり文教都市になった感があるが、アレンの故郷には日系人の涙がしみこんだままだと思う。

 その後、アレンはイングランド東部のサックスマンダム、米オクラホマ州のアルタス、そして日本でも知名度のあるカリフォルニア州エドワーズの各空軍基地で少年時代を過ごし、高校入学を前にして人口が2000人ほどしかいないサウス・カロライナ州中部にある小さな町、ダルゼルに落ち着いた。

 地図を見たが、同州の州都コロンビアまで50キロ、港湾都市チャールストンまで150キロ、NBAホーネッツの地元シャーロット(ノース・カロライナ州)まで120キロ…。アレンが登場するまで、ダルゼルの町の名士と言えば「ラストダンスは私に」などの曲で有名なドリフターズ(日本のグループではありません)のメンバーだったビル・ピンクニーしかいなかった。

 それでも基地には必ず体を鍛える施設があり、バスケットボールのコートはどの基地に行ってもあった。それが彼の人生を決める要因にもなった。イングランド訛りの英語は高校でもからかわれる原因になったが、そのエピソードは、ドラフト年度(1996年)が同じでイタリア訛りの英語でからかわれたコービー・ブライアントとよく似ている。とにかくサウス・カロライナにやってきた“ミリタリー・キッド”は運動神経抜群でたちまち有名になった。

 地元のヒルクレスト高校ではバスケットボールに専念し、レベルの違いを同世代の少年たちに見せつけた。アレンは自分でも述懐しているが、とにかく自分が納得しない時には決して練習を止めなかった。そこが他の選手とは違っていた。ただしそこには病的な一面も見え隠れしている。

 「病気なのか、そうでないのか…。自分はその境界線にいたと思う」。それがレイ少年が感じていた自分自身だった。もし本当に病気であれば「Obsessive―Compulsive Disorder」、日本語では「強迫性障害」と言われている精神疾患だった。不合理な行為や思考を自分の意に反して繰り返す症状。俗にいう「潔ぺき症」というのはこの範ちゅうに入る。

 彼の場合、この病気の症状のひとつとされている「不完全恐怖」の初期段階ではなかったか…。猛烈な練習量はブライアントのように「無限の探求心」から生まれたのではなく、1本のシュートを外したときに壊れる「完全状態」を修復するための作業だった。だから「やらなくてもいいことをやり続けた」という感覚が彼の心の中にはずっと残っていた。

 それでもアレンはその境界線をダークサイドへ足を踏み入れることなく歩き続け、結果的にシュートという特殊技能を高めることになった。2010年のファイナル第2戦でブライアントらを驚かせた精密機械のようなシューティングはこうやって生まれていた。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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