【藤川球児物語(6)】「ハンドボールやるなら名前変えろ!」 上田監督の熱意に負け野球部へ

[ 2020年11月18日 10:00 ]

城北中時代の藤川の恩師である上田修身氏

 中学時代の恩師も、藤川球児の野球人生を語る上で、避けて通れない。93年に城北中に進学。軟式野球部で出会ったのが監督・上田修身だった。高知商時代に阪神OBで元コーチの中西清起を擁して選抜優勝した時の主将である。

 入学直後だった。少年野球時代から注目していた投手がハンドボール部に入るといううわさが伝わった。上田は驚き、説得した。「ハンドボールやるなら、球児という名前も変えろ」。体格差を克服できるかという不安を抱えていた藤川も、監督の熱意を受け入れた。やはり野球が好きだった。

 上田は「線は細いが、状況判断が抜群」と見抜いた。バント守備の練習をすれば上級生がついていけなかった。もちろん、投手としての能力もズバ抜けていた。

 「今と同じ、きれいなフォームでしたね。どこもいじるところがなかった。球のキレも良かった。ヤクルトの伊藤智のようなタイプでしょうか。センスだけなら中西より上だったと思いますよ」

 指導者は目先の試合よりも、将来を重視した。それだけの素材だと信じたからこそ、厳しく接した。体ができるまでは投げ込みをさせず、下半身を徹底的に鍛えた。試合も遊撃手としての出場が多かった。

 2年になり新チームのエースになった後も、決して連投はさせなかった。「なんで投げさせてくれないんですか」と直訴してきても、成長期の肩肘への負担を考え、登板を控えさせた。並行して、お山の大将にならないように「チームのため」という意識を持つことを強く求めた。プロになって、その教育がいかに大事だったか、藤川も理解した。

 今年7月だった。上田がLINEで連絡を取ると「肩が痛いです」と返事が届いた。これまで決してそんなことは言わなかった男だった。大事にしてきた体も限界に達したのだと恩師にも伝わった。「よくここまでやったと思います」。実感のこもった、贈る言葉だった。 =敬称略=

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2020年11月18日のニュース