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“BI砲”ライバル物語 猪木さんの根底に馬場さんへの対抗心 新日旗揚げ後さまざまな仕掛け

[ 2022年10月2日 04:15 ]

アントニオ猪木さん死去

1971年、インターナショナルタッグで13度目の防衛を果たすジャイアント馬場さん(中央左)とアントニオ猪木さん(同右)
Photo By スポニチ

 1960年9月30日、猪木さんはジャイアント馬場さんと同じ日にプロレスデビューを果たした。入門は猪木さんが数日早かったが、2メートルを超える長身で元プロ野球選手の馬場さんはエリート待遇。猪木さんが大木金太郎に敗れたのに対し、馬場さんは田中米太郎を股裂きで破った。新人時代の直接対決では馬場さんの16戦全勝。その後、「BI砲」と呼ばれるタッグを結成したが、猪木さんは同期の背中を追いかけ、練習に打ち込んだ。

 その後ともに日本プロレスから離脱して馬場さんは全日本、猪木さんは新日本を設立。米有力団体に招へいルートを持つ全日本に対し当時は新興団体だったWWWE(後のWWE)が頼りだった新日本はタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンら米国マットでは無名だった選手を一流に育て上げて対抗した。

 外国勢対馬場さん、鶴田、ファンスの「王道プロレス」に対し、猪木さんは腹心の新間寿氏らとさまざまな仕掛けで対抗した。異種格闘技戦、日本人対決に加え、国際軍団との1対3、軍団対抗戦などアイデアあふれるマッチを提供。また、真の世界一決定戦としてIWGP構想を掲げた。夢のオールスター戦の試合後など猪木さんは馬場さんと対戦を要求。そのいきさつを「間違いなく俺が強いと思ったから」と猪木さんは明かしている。

 猪木さんの馬場さんへの挑戦は1980年代にエスカレートする。アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー戸口、ブルーザー・ブロディらを全日本から引き抜き、仁義なき戦争を仕掛けた。だが、最終的にはシン、ハンセン、ブリティシュブルドックスらを逆に引き抜かれ反撃されることになる。「よくライバルとは言われたけど、5歳年上だったので、ライバルというのも少し違うのかもしれません」と本紙に語ったが、猪木さんのさまざまな仕掛けの根底には常に馬場さんへの特別な思いがあった。

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2022年10月2日のニュース