【阪神90周年企画】田淵幸一が忘れたことがない長い長い夜 1978年衝撃のトレードの裏側

[ 2025年12月9日 05:15 ]

78年11月15日、深夜の会談に疲れ切った様子の田淵幸一
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 阪神の90年に及ぶ歴史の中では、激動に次ぐ激動となったオフシーズンもあった。1978年、2リーグ分立後では球団初の最下位に転落した阪神はなりふり構わず、チームの立て直しに着手した。その過程で、多くの事件が起こった。深夜のトレード通告の当事者となった本紙評論家・田淵幸一(79)の証言とともに、嵐のオフを回顧する。 (敬称略)

 長い長い夜を田淵は忘れたことがない。深夜の阪神高速。梅田に向かう愛車キャデラックの後に報道陣のタクシーが続いていた。

 「深夜に連絡があった時点で、トレードだと思ったよ。でも一方でそんなはずはない、と信じたい気持ちもあった」

 日付は11月15日になっていた。田淵はこの年、117試合、打率・288、38本塁打、89打点の成績を残したが、チームは2リーグ分立後、初の最下位。球団が再建に乗り出したオフの激動に4番も巻き込まれた。

 すでに阪神は同4日、後藤次男前監督の後任としてドン・ブレイザー監督就任を発表していた。守備力、機動力を重視する新指揮官の就任で、田淵の立場は微妙になっていた。これに目をつけたのが同年10月にクラウンライター球団を買収し、埼玉・所沢に誕生した西武だった。

 「球界の寝業師」とも呼ばれた西武・根本陸夫監督は直球勝負に出た。「正面切って交渉する」と11月14日夕に阪神電鉄本社に姿を見せ、小津正次郎球団社長に面会を求め、田淵獲得を正式に申し入れた。その深夜に阪神は田淵を呼び出した。

 同15日午前1時25分に大阪・梅田のホテル阪神に到着した田淵は1250号室で小津球団社長からの通告を受けた。「根本監督はいい監督だから、そこで勉強するのも君のためになる」「じゃあ阪神の監督はダメ監督なんですか」――。通路にも激しいやりとりが響いていた。会談が終わったのは午前2時45分だった。

 嵐のオフはまだ続く。1週間後の22日のドラフト会議。阪神は1位で“空白の一日”で巨人と契約を発表した江川卓を指名。翌年のキャンプ直前、小林繁とのトレードで決着するまで、阪神は揺れ動いた。

 志なかばでタテジマのユニホームを脱いだ田淵は「そのときは頭に来たけど、結論として西武に行って良かった。2度優勝して日本一にもなれた」と振り返った上で「阪神もあのころとは雲泥の差。その場しのぎの補強はしていない」とドラフトで獲得した選手を中心に強化を進める現状をOBとして評価する。嶌村聡球団本部長も「いつまでも黄金期というチームはない。対処療法で何とかする期間を球団としてはできるだけ短くすることが大事」と話す。危機管理への準備に抜かりはない。 (鈴木 光)

 ≪トレードとしては成功例≫ 78年オフの2対4のトレードで阪神から西武に移籍した田淵は80年に43本塁打。82、83年のリーグ優勝と日本一を経験し、84年の現役引退まで西武での598試合で、154本塁打、400打点をマークした。古沢憲司は西武での実働3年で95試合に登板。84年には広島でリーグ優勝に貢献している。

 一方、阪神に加入した4人のうち、野手の竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴は初年度の79年にそろって規定打席に到達した。中でも真弓は、球団初の日本一を達成した85年に1番で打率・322、34本塁打、84打点とクリーンアップに匹敵する数字で「恐怖の1番打者」と呼ばれた。それぞれが結果を残し、トレードとしては成功例だった。

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