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ペレか、マラドーナか 史上最高の「10番」論争は天国で続く

[ 2022年12月31日 04:30 ]

68年9月、バイシクルシュートを見せるペレ氏(AP)
Photo By AP

 サッカーの元ブラジル代表で「王様」として世界中のファンに親しまれた往年の名選手ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)さんが29日、大腸がんの進行などによる多臓器不全のためサンパウロの病院で死去した。82歳だった。

 ペレさんの競技人生を振り返る上で欠かせないのが2年前に亡くなった元アルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナさんとの「世界最高のサッカー選手は誰か?」という論争だ。

 ともに貧困からはい上がり、W杯で母国を優勝に導いて英雄となった。優勝3回のペレさんは4大会14試合で12得点。マラドーナさんは4大会21試合で8得点を挙げ、優勝は86年の1回しかないが、力強く創造性にあふれたプレーに加え「神の手」「5人抜き」という伝説のゴールで強いインパクトを残した。

 国際サッカー連盟(FIFA)は2000年に20世紀最優秀選手を選出。この際に両雄を並び立てる苦肉の策を強いられた。機関誌読者とインターネットの投票合計で1人を選ぶはずが、票数が多いネット投票で若年層の記憶に新しいマラドーナさんが53%を超える圧倒的な支持を獲得。ペレさんは19%にとどまった。一方で機関誌投票ではペレさんが58%、マラドーナさんは12%止まりでネット票を反映させるのは「公正さを欠く」と判断。特別委員会で専門的な知見を加味し、ペレさんを最優秀選手とする一方でマラドーナさんもインターネット選出の最優秀選手とした。

 麻薬所持など問題児だったマラドーナさんの単独受賞を嫌がったFIFAの政治判断とも言われ、ファンを二分していた論争はさらに過熱。ペレさんが誇りにしていた生涯1000得点以上の記録は非公式戦も多く含まれていたため、マラドーナさんがテレビ番組で「誰を相手に決めたんだ?(会場の)裏庭においっ子はいたのか?」と冗談交じりに問いかける場面もあった。

 ペレさんもマラドーナさんの問題行動を批判し、アルゼンチン代表監督就任を「金目当て」と皮肉ったこともある。しかし、マラドーナさんが亡くなった際は「君は比類なき存在。いつか天国で同じチームでプレーしよう」と思いをつづったように互いを認め合う間柄でもあった。近年はバロンドール(世界最優秀選手)を7回受賞したアルゼンチン代表メッシや5回受賞したポルトガル代表のC・ロナウドを評価する声もある。史上最高の選手をめぐる論争はペレさんとマラドーナさんが召された天国でも続くことになりそうだ。

 ≪ペレさん伝説アラカルト≫☆背番号10 17歳で出場した1958年W杯スウェーデン大会で初優勝の立役者に。ペレさんが偶然つけた「背番号10」は代名詞となり、ゴールを奪い、アシストもするエースの番号として広まった。

 ☆W杯交代制のきっかけ 66年W杯イングランド大会で史上初の3連覇を目指したが、欧州勢の手荒い「ペレつぶし」に遭い敗退した。ポルトガルとの1次リーグ最終戦では、足を狙った相手DFのタックル連発で負傷。当時は選手交代がないため、プレーできずにピッチに立ち続けるしかなく敗れた。これがきっかけとなり、70年大会から交代制度が導入された。

 ☆21歳で「王様」に 「王様」の代名詞を授かったのは21歳。62年にサントスを初の南米王者に導き、10月に世界クラブカップ(現クラブW杯)で欧州覇者のベンフィカ(ポルトガル)と敵地で対戦した。3得点2アシストの大活躍で5―2の圧勝と初優勝を飾ると、リスボンの7万5000人の観客が「オ・レイ」(王様)の連呼で称賛し、定着した。

 ☆9歳の約束果たす ブラジルは自国開催の50年W杯最終戦でウルグアイに逆転負けし、初制覇を逃す「マラカナンの悲劇」を味わった。自伝によれば、ラジオで敗戦を聴き、ショックで泣く父を初めて見た9歳のペレ少年は「いつか僕が父さんにW杯を勝ち取ってくるよ」と慰めた。8年後、約束を果たした。

 ☆停戦実現 サントスで69年1月にアフリカ遠征を行った際、内戦中だったナイジェリアでは試合開催のため前後48時間の停戦が実現。当時のペレさんには67年から始まっていた戦争を止めるほど影響力があった。

 ☆「ペレ法」に尽力 引退後はその名声を武器に実業界に身を置き、CMにも多数出演した。95年にブラジルのスポーツ相に任命されて取り組んだのは、クラブに拘束されてきた選手の契約や移籍、クラブ経営などの近代化。退任後に施行された通称「ペレ法」で形となった。

 ≪「ペレ」由来はGK「ビレ」?≫ペレさんの本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメントで「ペレ」はブラジル人選手がよく使うニックネームの一つだった。

 由来には諸説あり、幼い頃に「ビレ」というGKの名前を「ペレ」と言い間違えたため、もしくはうまく発音できずに「ペレ」と呼んだためなどというものがある。ただ、本人は06年1月にドイツのビルト紙に「ペレ」という語感が「赤ちゃん言葉みたい」で嫌いだったと告白していた。

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2022年12月31日のニュース