ヤクルト2位右腕・松本健がデビュー戦完封 球団72年ぶり2人目&無四球2桁Kは史上初「100点満点」

[ 2024年5月16日 05:30 ]

セ・リーグ   ヤクルト2-0広島 ( 2024年5月15日    松山 )

<ヤ・広>完封で初勝利を挙げナインとタチを交わす松本健(中央)(撮影・奥 調)
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 新星が松山で輝いた!ヤクルトのドラフト2位の松本健吾投手(25)が15日、広島戦でプロ初登板初先発し、被安打3で完封勝利。デビュー戦完封勝利は1952年の国鉄・小山恒三以来、チーム72年ぶり2人目で、無四球、2桁(10)奪三振での達成はプロ野球史上初の快挙となった。村上宗隆内野手(24)は8回に9号ソロを放ち、清原和博の24歳10カ月を大幅に更新する同3カ月で史上最年少200号を達成した。

 感情を一気に放出した。9回2死で代打・松山への118球目。松本健は投手へのゴロを一塁に送球して完封勝利を決めた。松山の夜空に両腕を突き上げる。「全くイメージしていなかった。100点満点です」。25歳の新人右腕は声を弾ませた。

 持ち味を発揮した。直球の最速は149キロも切れと制球力は抜群。「どの球種でもカウントが取れ、どの球種も勝負球になるのが強み」と話すようにスプリットを低めに集め、カットボールを両サイドに投げ分けた。ストライク率は66・1%。4回以降は一人も走者を許さない。9回1死では宇草から146キロ直球で空振り三振を奪い10奪三振。東京から坊っちゃんスタジアムに駆けつけた父・達夫さん(55)と母・明子さん(52)の前で、長いプロ野球史上で初となる初登板で2桁奪三振&無四球での完封勝利も達成した。

 常に悔しさを糧にしてきた。東海大菅生2年秋にエースに指名されるも3年春と夏は右足甲の疲労骨折の影響で状態が上がらず、エースナンバーを剥奪された。若林弘泰監督に「1番をつけたければチームを甲子園に連れていけ!」と奮起を促され、最後の夏は西東京大会決勝で清宮(現日本ハム)擁する早実を下し、甲子園に出場した。

 亜大では4年秋に調子を落とし、ドラフトで指名漏れ。「プロに1位で指名される選手になる」と誓ってトヨタ自動車に進んだ。元中日で制球力を武器に90勝を挙げた吉見一起テクニカルアドバイザーから「一球一球、意図をもって投げること」を叩き込まれたことが、この日も発揮した制球力の源。最速も4キロ増の152キロとなり、ドラフト2位でプロ入りを果たした。

 同学年には村上ら高卒で注目を集める選手が多く「“いつか自分も”と思っていた」と言う。高橋奎、奥川らが2軍調整するなど苦しい先発事情を抱えるチームに現れた救世主。“燕のマツケン”のサクセスストーリーは、始まったばかりだ。(重光 晋太郎)

 ≪国鉄時代の52年に小山恒三が達成≫新人の松本健(ヤ)がプロ初登板で10奪三振の無四死球完封。プロ野球の初登板初完封勝利は15年のジョンソン(広)以来史上30人目、そのうち新人では08年大場翔太(ソ)以来23人目。ヤクルトでは国鉄時代の52年に小山恒三が達成して以来72年ぶり2人目の快挙になった。また、初登板初完封の試合で2桁奪三振は、87年の近藤真一(中=ノーヒットノーラン)以来4人目、同じく無四死球は前記ジョンソンに次ぎ6人目になるが、2桁奪三振の無四死球完封は松本健が史上初めてだ。なお、完封に限らないチーム新人の初登板初勝利は13年の小川以来14人目。

 ≪5球種操り全てでK≫松本健は5つの球種全てで三振を奪った。制球力の良さを示すストライク率は66・1%。3球に2球近くでストライクを奪い、特にスプリットとカットボールは80%台という高さだった。球種別の平均球速で見るとスプリットとスライダーは同じ球速帯で、直球の145・2キロから115・8キロのカーブまでほぼ10キロずつ違った。

 ◇松本 健吾(まつもと・けんご)1999年(平11)4月14日生まれ、東京都出身の25歳。緑野小1年から「中野セネタース」で野球を始め、3年から投手。東海大菅生では1年秋からベンチ入りし、3年夏の甲子園で4強。亜大では2年秋からエースで東都リーグ通算34試合で7勝9敗、防御率2.63。トヨタ自動車では23年の都市対抗優勝に貢献した。1メートル80、83キロ。右投げ右打ち。愛称は「マツケン」。

 ▼ヤクルト・高津監督(亜大の後輩にあたる松本健は)素晴らしい投球だった。球が低いし、安心して見ていた。(村上は)この若さで記録をつくり、あの飛距離、あの打球。こういう選手に出会えてうれしく思う。

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