清川栄治さんが死去 広島、近鉄で活躍、左打者封じの「変則左腕」ワンポイントリリーフの草分け的存在

[ 2024年5月14日 05:45 ]

広島時代の清川さん

 広島、近鉄で中継ぎ投手として活躍した清川栄治(きよかわ・えいじ)さんが5日に悪性腫瘍のため都内の病院で死去したと13日、西武球団が発表した。62歳。京都府出身。故人の遺志により葬儀は近親者のみで行った。今季は西武で投手育成アドバイザーを務めたが昨年から闘病中だったという。チームは14日に1、2軍とも喪章をつけて試合を行う。

 清川さんはワンポイントで左打者を封じる「変則左腕」の草分け的存在だった。83年のドラフト外で大商大から広島に入団も当時は北別府学、大野豊、川口和久らそうそうたるメンバーがチームに在籍。プロの世界で生き残るために「自分に何ができるのか。その道のスペシャリストになろうと思った」と、自ら「邪道」というサイドスローに転向した。

 プロ初勝利は入団5年目の88年4月20日の巨人戦。同年にはデビューから114試合連続無敗のプロ野球記録(当時)も達成した。91年途中にトレードで近鉄に移籍。新天地でも左のワンポイントとして活躍した。広島に復帰した98年限りで現役引退。登板は全てリリーフで438試合連続救援登板も当時のプロ野球記録だった。対左打者の被打率は・223。まさに左のスペシャリストとして15年の現役生活を全うした。

 清川さんの現役当時はまだ中継ぎ投手の評価が低く、オフの契約更改の際には自ら独自の細かいデータを持参して交渉に臨んだことでも知られる。引退後は広島やオリックス、西武で長く投手コーチなどを務め、社会人野球の日立製作所でも指導。温厚な人柄と愛情あふれる指導で選手、関係者らに愛された。

 《86年の広島リーグ優勝に貢献》
 清川 栄治(きよかわ・えいじ)1961年(昭36)9月21日生まれ、京都府出身。京都商では2年夏の甲子園に背番号15で出場。大商大を経て83年のドラフト外で広島入団。86年には自己最多の50試合登板でリーグ優勝に貢献した。98年限りで現役を引退。通算438試合に登板し13勝10敗12セーブ、防御率2.94。現役時は1メートル76、75キロ。左投げ左打ち。

 《打者の左右を問わず》
 ○…清川氏が最も多く対戦したのがクロマティ(巨)で35打席。31打数7安打、打率.226に抑えた。10打席以上対戦した選手では藤井康雄(オ)、平野謙(ロ)、愛甲猛(ロ)、荒井幸雄(ヤ)を無安打に抑えている。両打ちの平野以外はいずれも左打ちだった。左キラーのイメージが強いが左打ちには646打数144安打で被打率.223。右打ちも落合博満(中)を.200、原辰徳(巨)を.250に抑えるなど通算被打率.221で、打者の左右を問わず結果を残した。

 ▼広島・松田元オーナー おととい(訃報を)聞いた。驚いたし、ショックだった。とても人柄が良く、指導者としても非常に熱心だった。ご冥福をお祈りします。

 ▼大野豊氏(本紙評論家。広島でチームメート)突然のことで驚いています。丁寧な話し方、達筆、きちょうめんで真面目で…。現役当時は汚れたユニホームも畳んでランドリーに出していた。野球選手である前に社会人として素晴らしい人格者でした。指導者としても各チームで長年、活躍できたのも彼の人間性があったからだと思います。早すぎる別れは残念でなりません。ご冥福をお祈りします。

 ▼辻発彦氏(本紙評論家。西武監督時代にコーチとして支えてもらう)体調を崩されていたことは知らなかった。ショックです。コーチ経験が長く、若い選手とのコミュニケーションの取り方はうまかったと思う。2軍コーチ、巡回コーチとしてシーズン中に何度かナイター前の練習に顔を出して、きめ細かい報告をしてくれた。年齢も近かったし、話しやすいコーチだった。私よりも若いのに…。ご冥福をお祈りします。

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