【100歳 甲子園球場物語】甲子園とともに“娯楽の王様”だった阪神パーク 今は引き潮で遺構が…

[ 2024年5月14日 07:00 ]

阪神パーク水族館外観=提供・阪神電気鉄道=
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 甲子園球場の完成を受け、阪神電鉄は周辺のリゾート開発を進めた。1929(昭和4)年、甲子園浜に誕生した“初代”阪神パークは「東洋一の遊園地」として大人気となった。甲子園球場と阪神パークは娯楽の王様だった。だが、時代は戦争へと進み、43年に閉鎖。今では3分の1が海に沈み、干潮時には遺構が顔をのぞかせている。 (編集委員・内田 雅也)

 谷崎潤一郎が1936(昭和11)年に発表した小説『猫と庄造と二人のをんな』は、猫のリリーを中心に、芦屋に住む庄造と妻・福子、先妻・品子の三角関係が描かれている。

 庄造の母・おりんが気が合わない品子と別れさせ、福子と結婚させようと策謀する。福子はその気で、庄造をデートに誘う。

 <甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘われるままに、何処(どこ)へでもふらふらと喰(く)っ着いて行って、呑気(のんき)に遊んでいるうちに、とうとう彼女と妙な仲になってしまった>

 この<野球>は中等野球(今の高校野球)である。タイガース創設は35年12月で、小説執筆時はまだ知名度も低かった。甲子園大会は連日、満員となる人気を呼んでいた。

 海水浴は香櫨園浜や甲子園浜だろう。さらに阪神パークが当時の人気スポットだったことがわかる。昭和初期のレジャーである。

 評論家・虫明亜呂無(むしあけあろむ)は小説『野球が偉大だった時』で<野球は、遊芸がさかんで、料理がうまくて、女性文化が優遇されている土地でないと強くならない>と書いた。自ら『時さえ忘れて』(グラフ社)で明かしている。阪神間文化を描いた谷崎作品に通じている。

 さて、この阪神パークは戦後、甲子園球場の東隣にあった甲子園阪神パークではない。甲子園浜の浜辺にあった“初代”である。

 昭和天皇の即位を受け、28(昭和3)年、甲子園筋一帯で「御大典記念阪神大博覧会」が催された。この時建てた大汐湯(浴場)と余興館(演芸場)を引き取り、阪神電鉄は翌29年7月7日、「甲子園娯楽場」を開場した。これが前身で、動物園や遊技設備を増強して、32年、「阪神パーク」と改称した。

 担当の事業課長だった前田純一は社史『輸送奉仕の五十年』で<アメリカのコニーアイランド式のダイナミックな行き方>と記している。甲子園浜まで通っていた路面電車、阪神甲子園線は夏にはボディーが風通しのいい金網でできた通称「アミ電」が走った。

 甲子園球場建設の英断を下した代表取締役・三崎省三が技師長時代の1910(明治43)年、視察旅行先のロンドンから本社に送った手紙で「鳴尾より西の海岸をブリックプール、コニーアイランドにする」と宣言していた。壮大な夢が実現に向かっていた。
 「生きた動物園、動く遊園地」がテーマに野球場同様に「東洋一」をうたった。

 動物園は当時一般的だったオリに入れて見せる展示形式ではなく、放し飼いにして「動き」を見せた。池の中に猿山を作ったお猿島、坂を登る習性を利用したヤギの峰、南アフリカからペンギンを取り寄せた。ゾウ、ライオン、チンパンジーには芸を教え、サーカス団を編成した。

 併設した水族館は巨大水槽を覆う特殊ガラスをベルギーから取り寄せた。現地の海水はイオン濃度が悪く、専用の機帆船「阪神丸」を用意し、紀淡海峡でくんで運んだ。沖縄から熱帯魚を運び、サンゴ礁も再現した。36年には和歌山・太地からゴンドウクジラを生け捕り輸送、最も多い時で8頭がクジラ池を泳いだ。前代未聞の飼育成功となった。

 「オコサマは阪神パークがおすき」をキャッチコピーに、家族連れでにぎわった。

 ただ、そんな子どもたちに向けた催し物として36年11月に「少国民海軍博覧会」が開かれるなど、時局は戦争へと進んでいった。

 海軍が同地に飛行場を建設するため43年4月12日、接収された。前田は<われながら立派なもので、今思い出しても惜しいもんだとシミジミ思う次第である>と無念を記した。

 飛行場跡地は戦後、進駐軍のキャンプとなり、浜甲子園団地が建った。堤防が旧パークを横切るように造られたため、3分の1が海に沈むことになった。

 いま、引き潮の時に訪ねれば、遺構が顔を出す。展望台の基礎部分、花壇や浴場の跡が見える。「甲子園」に思いをはせた夢の欠片(かけら)たちである。 =文中敬称略=

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