【100歳 甲子園球場物語】「土守」の教え 開場から連綿と受け継がれる

[ 2024年5月3日 07:00 ]

甲子園の「土守」と呼ばれた藤本治一郎さん=1987年

 100年にわたり、甲子園球場のグラウンドを守ってきた「土守」の系譜を書いておきたい。前回書いたように、石川真良(しんりょう)氏が建設当時に生み出した土を守ったのは、戦前からグラウンドキーパー長だった米田長次氏(1909―80年)、同氏を師と仰ぐ藤本治一郎氏(1925―95年)だった。

(編集委員・内田 雅也)

 吉田義男(90)は甲子園球場100周年にあたり「多くの先人たちに敬意を払いたい。この機会に裏方の人たちにも光があたればと願います」と話している。たとえに出したのが「じーやん」こと藤本治一郎だった。甲子園の「土守」と呼ばれた名物グラウンドキーパーである。

 甲子園球場ができた翌年1925(大正14)年、球場と目と鼻の先、兵庫県鳴尾村(現西宮市鳴尾町)に生まれた。鳴尾高等小学校卒業の40(昭和15)年2月、阪神電鉄に入社し甲子園球場に勤務。87年5月に退職するまで約半世紀、甲子園とともに生きた。

 「鏡のように、綿を踏んでいるようになるまでならせ」が教えだった。弟子であり、藤本の娘婿でもある辻啓之介(79)は「オヤジ」と呼んだ。ただし「周囲に身内であることはしゃべったことがなかった。皆と同じように、トンボの使い方一つ、技術を教えてもらえなかった。怒られて考え、見よう見まねで盗んだ」。まさに職人の世界である。

 辻は藤本に誘われ、会社員から転身、78年から2003年まで阪神園芸で勤め上げた。

 土は生き物だ。口癖は「土としゃべらんかい」だった。土の声を聞けというわけだ。長期間、雨が降らないと「土がすねる」「土がぼける」と言った。

 試合中は不規則バウンドが出ないよう祈っていた。数々の激闘、名勝負の場にいたが、引退時、印象に残る試合を聞かれ「グラウンドばかり見てきたので分からん」と答えた。

 江夏豊(75)は<自身を育ててくれた>と藤本に感謝している。後藤正治『牙――江夏豊とその時代』(講談社)にある。大阪学院高から阪神入りした67年3月のオープン戦、ベンチ前で土ぼこりが口に入り、吐き出した。「バカヤロー! グラウンドに唾を吐く奴(やつ)がどこにおる」

 <江夏に不快なものは残らなかった。グラウンド整備に懸ける男の一途なものが伝わってきたからである>。

 藤本の父・治郎吉は半農半漁。6人きょうだいの長男で、よく仕事を手伝った。その影響で天気には詳しかった。「雲の京参り」や「辰巳の夕立」など雨の予兆を気象台より正確に見て取った。

 そんな藤本が選手として巨人に在籍していた話はあまり知られていない。少年時代から三角ベースで野球に親しんだ藤本は入社後、実業野球・阪神電鉄のエースで4番だった。1メートル75、78キロは当時としては大柄だろう。スポニチの先輩記者、有本義明(92)は当時、甲子園駅のすぐ北側に住んでおり、鳴尾高小の先輩にあたる藤本の剛腕ぶりを「その名は周辺に鳴り響いていた」と話す。

 47年、うわさを耳にした巨人外野手・平山菊二、捕手・林新衛が監督・三原脩に進言、「ウチでやってみないか」とスカウトされた。猛反対する母親に内緒で7月に上京。背番号26をもらった。だが9月の甲子園遠征時、母親が三原に「長男は親のそばに置いておきたい。プロで身を滅ぼす」と涙ながらに訴え退団となった。出場なし、わずか2カ月のプロ野球生活だった。

 藤本の著書『甲子園球児一勝の“土”』(講談社)にある。同書で藤本が<師と仰ぎ、親と慕った>と最大限の敬意を表しているのが、戦前のグラウンドキーパー長、米田長次である。藤本と同じ町内に住んでいた。

 プロ野球ができる以前、28年に阪神電鉄に入社。甲子園球場勤務となった。「米田の長さん」と親しまれた。

 <甲子園のグラウンドが非常によいと言われているのは、他ならぬこの長さんが自分の恋人のようにかわいがったからなのだ>。1リーグ時代の日本職業野球連盟(NPBL)、セ・リーグ会長を務めた鈴木龍二が『プロ野球こんなこと』(ベースボール・マガジン社)で賛辞を贈っている。38年9月15日には<連盟創設以来、日夜グラウンド調整その他万般に献身的援助をなした、陰の功労者>と表彰している。

 <風が吹けば、夜でも甲子園に走って行き、雨が降れば、また走って行った。その頃、長さんのグラウンドを愛する熱情に、神様みたいだと言った人もあったぐらいだ>。現在も阪神園芸に引き継がれる精神を形づくった。

 NPBL関西支局長・小島善平が遺(のこ)した貴重な写真には「甲子園の宝」と添え書きされていた。

 米田は80年、甲子園にほど近い明和病院で息を引き取った。亡くなる前、病床で「甲子園の芝が年中青かったらええのになあ」とつぶやいた。「長さんの夢」は藤本が2年後に実現させた。
 「長さん」や「じーやん」だけではない。甲子園を愛するあまたのグラウンドキーパーたちによって、100年間、守られてきたのである。 =敬称略=

続きを表示

この記事のフォト

「始球式」特集記事

「落合博満」特集記事

2024年5月3日のニュース