「英語話せない」23歳日本人 「野茂に憧れ」米国で3A審判員に 退場!は「100回」の激動12年

[ 2024年4月29日 07:30 ]

米マイナーリーグ審判員時代の松田さん(右)

 夢のメジャーリーグまで、あと一歩だった――。23年シーズン限りで米国メジャーリーグ傘下の3A審判員を退職し、現在はカナダのトロントに在住する松田貴士(たかひと)さん(35)が、マイナーリーグ審判員として過ごした激動の12年間を振り返る。第1回は英語も話せなかった23歳の時に渡米し、ルーキーリーグで米国の審判員キャリアをスタートさせ、異国の地で感じた文化の違い、言葉の壁などについて語る。(聞き手 元NPB審判員、アマチュア野球担当記者・柳内 遼平)

――四国アイランドリーグで審判員を2年間務めた後、23歳の時にメジャーリーグ審判員を目指して渡米。NPB審判員を目指す選択肢もあったか。
 「それはなかったですね。最初からメジャーリーグ一本でした。やっぱり野茂さんやイチローさんの活躍を見て、海外に挑戦する憧れがありました」

――渡米後はルーキーリーグから12年間で3Aまでキャリアアップし、昨季限りで退職。異国で仕事をすること自体が大変だが、チームの間に入り試合をジャッジする審判員は大変な仕事。
 「高校や大学で英語は勉強していましたが、英語を話せない状態で渡米したので、自分でもよくやったなと思いますね。いま客観的に振り返ると文化、言葉の壁がいろいろ大変だった。最初の3年間が特にキツかったですね。言葉の壁が一番。3、4年でようやく自分で話せるなという感覚が出てきた。それに日本とは違うボディランゲージの感覚、退場を宣告する感覚がありました。米国における共通認識が分かるまでに10年くらいはかかったと思います」

 ――マイナーリーグの審判員をする上で、日本とは異なるボディランゲージの感覚とは。
 「例を挙げると監督から抗議を受ける時、日本では相づちは特に悪いこととされていないと思います。でも米国では違う。相づちは“抗議している側が上で、抗議される側が下と見られてしまう。自信がないように見えてしまう”とスーパーバイザー(評価担当者)から指摘されました。相づちは日本の文化の中で身についたことなので、意識的にやらないようにすることに苦労しましたね」

 ――米国の野球では派手な抗議シーン、退場シーンがあるイメージがある。日本との違いはあったか。
 「抗議の場面で監督らが“これをやってはいけない”というリストがありました。例えば個人的な批判“お前は●●だ”と言った時などは退場、といったところです。警告した後に退場させるというパターンは8割ほど。ただ杓子定規ではなくて、その場その場の加減で決めないといけないことが多い。自分の場合は早いタイミングで退場を宣告してしまい、スーパーバイザーから“あれは警告を出してから退場させた方がよかった”や逆に“あの場合はもっと早く退場させるべきだった”と注意されることがあった。最初はあまりうまく対応できませんでした。頭で考えることではなくて文化、現場の空気を正しく読み取ることが大切。感覚を掴むためには時間がかかりましたね」

 ――判定に対する言い分と言い分をぶつけ合って生まれる「退場宣告」。マイナーリーグでは何度経験した。
 「昨年の23年シーズンが一番多かったと思います。1年で16回もありました。最初の2、3年はやっぱりちょっとビビって退場をさせられなかった。12年間で合わせて100回近くといったところでしょうか」

 ――審判員にとって退場宣告は負荷の高い仕事。どう感じていたのか。
 「やっぱり最初は勇気のいることで“凄いことをやったな”と思っていましたね。ただ、だんだんと慣れもありましたし、他の職業では警察官とかもそうだと思うんですけど、仕事上の権限を持つ人が事態をコントロールする時に必要な振る舞いがある。時には強く出ないといけない場合もある。演じることも必要というふうに考えるようになりましたね」

 ――日米で日常生活の違いは。
 「自分は米国の食事も全然大丈夫だった。日本から米国に来る人で一番の壁は食事なんですよね。合わなくて体調を崩す人も結構いる。その点、自分は食事も大丈夫でお酒も飲めたので審判員仲間との付き合いもできました。英語はしゃべれなかったけど、誰かが誘ってくれたら必ず出かけました。“順応しよう”っていう気持ちでいろいろなことにチャレンジできたので、あまり苦になることはなかったですね」

 ――渡米前に英語はある程度勉強していたのか。
 「中学生の頃から英語は好きな教科ではありました。ただ特別に試験を受けたりはしていませんでした。“なんとかなるだろう”って。でも米国に行ったら全くしゃべれなかった。ただ、キャリアをスタートさせたルーキーリーグでは“みんながルーキー”という感覚があった。それにスペイン語圏の選手も多くて“英語がしゃべれなくても当たり前”みたいな空気もあった。それには救われましたね。南米の選手からはむしろ好かれることもありました」(第2回に続く)

 ◇松田 貴士(まつだ・たかひと)1988年7月14日生まれ、愛媛県西予市出身の35歳。小3から豊中リトルリーグで野球を始め、宇和中では軟式野球部に所属。八幡浜(愛媛)では捕手としてプレー。高知大では2年冬まで野球部に所属し、3年春から四国アイランドリーグ・高知でスコアラーを務め、同年途中から11年まで同リーグの審判員を担当。12年に米国の審判員学校に合格し、ルーキーリーグでキャリアをスタートさせ、21年にはメジャーリーグまであと一歩の3Aに昇格。23年シーズン限りで退職した。尊敬する人は野茂英雄、イチロー。1メートル76、65キロ。現在はトロントに在住。X(旧ツイッター)アカウントは松田 貴士(まつだ たかひと)「@T_Matsuda44」

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