パラ・アスリートの軌跡 ~障がい者スポーツ~
車いすテニス菅野浩二 遅咲きエースが狙うアジア経由世界一
大坂なおみの全米オープン制覇で盛り上がるテニス界。車いすテニスの世界にもメダルが期待される有望選手がいる。昨年から障がいの重いクァード(男女共通上下肢障がい)クラスに転向した菅野(すげの)浩二(37=リクルートオフィスサポート)は現在世界ランク4位で、東京でも十分金メダルを狙える位置にいる。開幕まであと700日。頂点を目指してひたすらラケットを振り続けるエースの戦いを追った。 (編集委員・藤山 健二)
〜最初の転機は25歳〜
クァードクラスに転向して2年目の今季、菅野はすでに国内外のシングルスで6勝を挙げている。来月には今年一番の目標となるアジアパラ(インドネシア・ジャカルタ)を控え「東京でメダルを獲るためにはまずアジアで勝つこと。韓国選手などライバルは多いけど、とにかく全力で頑張ります」と言葉に力を込めた。
15歳の夏に交通事故で頸椎(けいつい)を損傷し、長期間のリハビリを経て20歳の時に車いすテニスを始めた。車いすテニスはツーバウンドでの返球が認められている以外は一般と同じルールで行われる。もともと埼玉・騎西高(現・誠和福祉高)の体育科に通い、バスケットボール部で活躍するなどスポーツは何でも得意だったこともあり、テニスもめきめき上達した。とはいえ、始めた頃は日本や世界のトップを目指すような気持ちはまだなかった。「英語が全然だめで海外へ行くのが嫌だったんです。近所や国内の他の大会に出られればそれで十分でした」
最初の転機となったのは25歳の時。職業訓練を受けるために改めて通いだした所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターで、リクルートの障がい者特例子会社「リクルートオフィスサポート」の社員募集を知り応募。06年9月に入社した。
待望の定職に就き、しばらくは平日はフルタイムで事務の仕事、土日はテニスの練習という生活が続いた。試合には有給休暇を取って出場した。テニスはまだ趣味の範囲だったが、トップ選手だけが出場することができる全日本選抜マスターズに一度は出てみたいという希望だけは持ち続けていた。
〜第二の転機2年前〜
ようやくそのチャンスが訪れたのは16年暮れのことだった。ランク的には補欠だったものの、繰り上がりで念願のマスターズ初出場が実現した。そしてそこで第二の転機が訪れる。対戦したリオデジャネイロパラ代表の斎田悟司(46)から「クァードだったら東京でメダルが狙えるんじゃないか」とアドバイスされたのだ。
車いすテニスには男子、女子の他にもう一つ、クァードクラスがある。下半身だけでなく上半身にも障がいを持つ人たちのためのクラスで、両腕に障がいのある菅野も資格はあったが、それまでは通常の男子クラスに出場していた。クラスを替えてまで東京パラを目指すかどうか悩んだが、ちょうどその頃母親が亡くなったこともあり「やれるチャンスがあるのにやらないのはよくない」と転向を決意した。戦う環境を整えるために自分の思いを伝えたところ、会社側も快諾。遠征費の補助はもちろん、仕事面でも競技中心の生活が送れるように全面バックアップを約束してくれた。
パワーやスピードが必要な男子クラスに対し、上半身にも障がいを持つクァードはテクニックがより重要になる。菅野も「最初は戸惑った」と言うが、昨年一年間でさまざまな経験を積み、12月の全日本選抜マスターズで優勝。今年は積極的に海外へも飛び出している。
4月の釜山オープンを皮切りに勝ち星を重ね、6月のパリバ・オープンでは世界1位のデビッド・ワグナー(米国)を準決勝で撃破して優勝。世界ランクも4位まで浮上した。
「昨年は日本一を果たしたので、今年はアジア制覇。段階をきちんと踏んで、2年後の東京では金メダルを獲りたい」。車いすテニスは国枝慎吾や上地結衣だけではない。クァードのエース、スゲノもお忘れなく。
【背景】
高1の時に交通事故で頸椎を損傷して車いす生活となった菅野は、上尾市の埼玉総合リハビリテーションセンターに入所した。同センターは治療、リハビリ、職業訓練から社会復帰までを一貫して支援する施設で、さまざまな治療と訓練を受けながら19歳まではほぼ施設内で過ごした。新たに車いすバスケットボールにも取り組み、地元・埼玉ライオンズの選手としても活躍した。
退所後は接客業に就き、バスケットは断念せざるをえなくなったが、その頃にリハビリを通じて知り合った友人たちからテニスに誘われた。1台30万円以上もする競技用の車いすを譲ってもらったことが、本格的にテニスにのめり込むきっかけとなった。
【支援】
菅野を支えるリクルートオフィスサポートは90年にリクルートの障がい者特例子会社「リクルートプラシス」として設立され、06年に現在の社名となった。事務や経理などグループ各社のサポート業務が中心で、従業員324人のうち8割以上の277人が何らかの障がいを持っている。
アスリート活動にも力を入れており、菅野の他にも車いすバスケットボールやシッティングバレーボールの選手たちが働きながら東京パラを目指している。菅野は現在、経営企画室広報グループに所属。社内広報誌の作成が主業務だが、仕事と競技の両立をモットーに平日は週3日出勤し、残りの2日間を練習に充てている。
【現状】
クァードクラスの世界ランク1位デビッド・ワグナーはミスの少ない正確なショットが持ち味で、パラリンピックでは04年アテネと12年ロンドンで銀メダルを獲得している。2位のディラン・アルコット(オーストラリア)は元車いすバスケットの選手で前回リオパラ優勝、3位アンドリュー・ラフォーネ(英国)もグランドスラム大会で活躍している強豪だ。
菅野が東京でメダルを獲るためにはこの3強を倒さなくてはならないが、6月のパリバ・オープンでは実際にワグナーを撃破しており、十分可能性はある。「3人だけじゃなく当たる人全員がライバル。気持ちで負けないようにしたい」
【競技】
クァードは英語で「四肢麻痺(まひ)」の意味で、下肢だけでなく上肢にも障がいを持つ選手のためのクラス。握力が弱くてラケットを握れない場合はラケットと手をテーピングで固定することが可能で、電動車いすの使用も認められている。男女の別はない。
ルールは男女の車いすテニスと同じで、ツーバウンドでの返球以外は一般のテニスと変わらない。障がいのために体温調節が困難な選手も多く、高温多湿のジャカルタで行われるアジアパラや東京では暑さ対策も重要になる。
【略歴】
☆生まれ 1981年(昭56)8月24日、埼玉県上尾市
☆今季の優勝 3月北九州、4月ダンロップ神戸、釜山、6月トヨタ、パリバ、8月オーストリア(いずれもオープン大会、シングルスのみ)
☆練習場 都内の施設は2年後に向けて改修中のところが多く、普段は北区のナショナルトレーニングセンターを利用。埼玉や千葉まで出かけることも多い
☆趣味 漫画が大好き。「海外に行くと週刊漫画が読めなくなるのでつらいです」
☆好物 納豆。「オクラとかネバネバしたものが大好き」
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