玉鷲“玉の海イズム”継承で賜杯 親方「粘り腰につながり」

[ 2019年1月28日 05:30 ]

大相撲初場所千秋楽   ○玉鷲―遠藤● ( 2019年1月27日    両国国技館 )

片男波部屋に飾られている玉の海の優勝額のレプリカ
Photo By スポニチ

 片男波部屋では、6度の優勝を飾っている第51代横綱・玉の海以来、玉鷲が2人目の優勝力士となった。その玉の海は虫垂炎を患いながら土俵に上がり、術後の合併症により横綱のまま、1971年10月に27歳の若さで亡くなった悲運の力士。玉鷲の入門時の師匠で現在は片男波部屋の部屋付きの楯山親方(元関脇・玉ノ富士)は玉の海の弟弟子で、その強さを目の当たりにしていた。「とにかく稽古が凄かった。1時間20、30分くらい土俵にいて、貴ノ花、輪島相手に1敗もしない。オーラが、厳しさがあった」と懐かしんだ。

 右四つの美しい型だった玉の海と違い、玉鷲は押し相撲だ。ただ、片男波部屋の伝統は受け継がれている。片男波親方は「玉の海が土俵際で弓なりになった時、お客さんの顔が見えたという話を聞いたことがある。諦めないのは片男波部屋の教え。粘り腰はつながるものがあるのかも」と話した。白鵬を破ってトップに並んだ12日目の相撲は、両足が俵にかかってから左のいなしで逆転。まさに“玉の海イズム”だった。

 片男波部屋には横綱初優勝を飾った70年秋場所の優勝額のレプリカが飾られている。片男波親方は「(1メートル77と)体が小さくてもできるというのを力士にも感じてもらいたい。不撓(ふとう)不屈の精神を見習ってほしい」との願いを込めている。地道な努力を続けた玉鷲が、71年7月の名古屋場所で最後の優勝を果たした偉大な先輩に続いた。

 ▼片男波親方(元関脇・玉春日)本当に想定外の優勝だった。相撲経験がなく、モンゴルから裸一貫でやってきた。何もない状況から優勝を実現できた。(第2子誕生と優勝が重なり)神様からのプレゼントだ。

 ▼八角理事長(元横綱・北勝海)玉鷲は冷静だった。いくつになっても諦めては駄目だということ。努力していればこういう成績を残せる。他の力士にも励みになったんじゃないかな。

続きを表示

2019年1月28日のニュース