山下治広氏「現状にもうひとつ“ひねり”を加えなさい」 ヤマシタ跳びで満足せず秘技開発

[ 2018年10月24日 10:00 ]

2020 THE YELL レジェンドの言葉

山下治広氏が64年の栄光の写真の前で後輩へのエールを語る
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 54年前の東京五輪で金メダル5個を獲得し、世界にその名をとどろかせた体操ニッポン。つわものぞろいのメンバーの中でもひときわ輝きを放ったのは跳馬のスペシャリスト、松田(旧姓山下)治広さん(79)だった。世界を驚かせた「ヤマシタ跳び」と金メダルを獲る一念で編み出した「新ヤマシタ跳び」。世界の体操史にその名を刻んだウルトラC誕生の瞬間を、改めて振り返る。

 世界が初めて「ヤマシタ跳び」を目撃したのは東京五輪の2年前、62年の世界選手権(チェコ・プラハ)だった。踏み切り板から勢い良く跳び上がり、跳馬に両手をついて倒立。空中で一度屈身し、最後は伸身姿勢で着地する華麗な技に会場内は騒然となった。

 「あの時は調子が悪くて補欠との交代を申し出たほどでした。初めての世界選手権で緊張していたんでしょうね。だから団体で優勝、跳馬でも2位に入れたのは不思議でした」

 61年3月に日体大を卒業し、助手として就職した松田さんは、体育館内の管理室に寝泊まりしながら1日7時間の猛練習に明け暮れていた。そんなある日、学生の一人が面白い跳び方をしているのに気がついた。ポンと空中高く浮き上がり、腰を曲げながら体を屈身させて跳馬を跳び越す。普通の前転跳びとは明らかに違っていた。「びっくりするぐらい高く跳んでいました。おー、これは凄いなって。試しに自分も同じようにやってみたらうまく跳べた。これはいけるんじゃないかと思いました」

 そこからが「何でもひらめきでパッとやるタイプ」という松田さんの真骨頂だ。この跳び方だと確かに高さはあるが、踏み切りから着手までの第1飛躍が小さい。そこで踏み切り板と跳馬との間隔を50センチから徐々に広げ、最後は2メートルで固定した。手をつく場所も一般的な馬首(着地側)ではなく手前の馬尾(踏み切り側)に変更。前半と後半の飛躍を大きく、バランス良く見せるように工夫した。

 試行錯誤を繰り返しながらようやく完成した「前転屈身跳び」は採点規則に載っていないこともあり国内では低評価だったが、海外では「ヤマシタサルト」として高い評価を受けた。松田さんは一躍、東京五輪の金メダル候補として脚光を浴びることになった。

 松田さんが凄いのは、ここで満足しないところだ。「外国選手はきっと東京でヤマシタ跳びをまねてくるに違いない。僕が勝つためにはもっと凄い跳び方を身につけないと。すぐにそう考えました」

 金メダルを獲るために新たに取り組んだのは後半の飛躍で「ひねり」を加えることだった。だが、まだ世界の体操界に「ひねり」の概念がほとんどなかった時代。何度やってもうまくいかない。五輪開幕が迫り、焦燥感ばかりが募る中「新兵器」との出合いが運命を変えた。

 青森県八戸市での合宿中のことだった。ウオーミングアップを始めようとした時、ふと真新しいトランポリンが目に入った。「何げなくトランポリンに上がったんです。背中から落ちて立ち上がった瞬間、“これだ!”とひらめきました。背落ちから立ち上がるまでの間に体を1回ひねる練習をすればいいんじゃないかってね」

 跳馬の練習は体力の消耗が激しく、練習量には限界があった。しかし、トランポリンで跳びはねるだけなら疲労も少なく、ひねりの感覚だけをいくらでも練習することができる。新兵器を使った猛練習の末、「両腕を上でクルンと回すことがひねりのきっかけになる」ことに気づいたのは五輪開幕のわずか半年前のことだった。

 1964年10月23日。東京五輪の大舞台で松田さんは1回目に「ヤマシタ跳び」を決め、2回目も「ひねり」を加えた「新ヤマシタ跳び」を成功させて見事に金メダルを手にした。栄光の証は今、出身地・愛媛県宇和島市の総合体育館に展示されている。歴史に名を残したレジェンドは、2年後を目指す後輩たちにこうエールを送った。

 「今の選手はしっかりしていてよくやりますよ。でも外国の選手も同じように頑張っている。だから今の技に磨きをかけるのはもちろんですが、もっともっと上の得点を目指して新しいことに取り組んでほしい。私は新しい技、人がやっていない技を追いかけるのが好きでした。東京では後輩たちにあっと驚くような技を見せてほしいと期待しています」

 ◆64年東京五輪「ヤマシタ」快挙VTR 64年10月23日はゴールドラッシュで、東洋の魔女と言われた女子バレーボールなど1日に4個も金メダルが出た。24日付のスポニチは松田さんの快挙を「神技9.9の山下とび」という見出しで伝えている。当時の跳馬は2つの技を2回ずつ計4回跳び、それぞれ高い方の得点を足して順位を決める方式で、10点が最高。松田さんの最初の「ヤマシタ跳び」は2回とも9.9で、スイスの審判は10点満点をつけたほどだった。

 続く「新ヤマシタ跳び」の1回目はひねりの途中で少し足が乱れたが、着地はしっかり決めて9.75の高得点をマーク。「もう金メダルは確定したも同然だったので最後はもっとやってやるぞと力みすぎた」という2回目は勢いがつきすぎて着地に失敗したものの、トータルでは圧勝だった。日本は跳馬の他に団体、個人総合、平行棒(ともに遠藤幸雄)、つり輪(早田卓次)と合計5個の金メダルを獲得している。

 ◇松田 治広(まつだ・はるひろ)旧姓・山下。1938年(昭13)11月15日生まれ、愛媛県宇和島市出身の79歳。日体大卒。62年世界選手権(プラハ)の跳馬でヤマシタ跳びを成功させて2位に入り、64年東京五輪では団体の総合優勝に貢献。新ヤマシタ跳びで跳馬の金メダルも獲得した。68年の現役引退後は日本体操協会の女子競技委員長、専務理事などを歴任。00年には国際体操殿堂入りも果たした。現在は日体大名誉教授。

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