型破りだった輪島さん 大鵬のスカウト断り進学 辛子明太子を“さちこ”明太子

[ 2018年10月10日 05:30 ]

第54代横綱・輪島さん死去

1973年名古屋場所、新横綱として土俵入りする輪島
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 大相撲の第54代横綱・輪島の輪島大士(本名輪島博=わじま・ひろし)さんが8日午後8時、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、都内の自宅で死去した。70歳。14回の優勝を飾り、北の湖とともに「輪湖時代」を築いた希代の大スターは、土俵外でも派手な私生活でそれまでの力士のイメージを大きく変えた。

【輪島伝説】

 ・日大に進学 高校2年時に横綱・大鵬がスカウトのために実家を訪れた。引退後に部屋を起こすときに備えての誘いだったが、熟慮の末に横綱の誘いを断って日大進学を決めた。日大相撲部では入学直後の4月に行われた東日本新人選手権大会で優勝し、レギュラーの座を確保。当時、日大相撲部ではすき焼きの日はレギュラーだけに卵が支給されていたといい、相撲部新記録というどんぶり14杯を平らげた。

 ・日本一連覇 大学3年で全国学生選手権を制して学生横綱になった。4年時にも優勝を飾り、史上3人目のとなる連覇を果たした。学生として偉大な記録を打ち立てた一方、「アマ横綱」のタイトルは一度も手にすることができなかった。学生時代のタイトルは14個で幕内の優勝回数と同じだった。

 ・応援合戦も 70年秋場所の6日目、高校時代からしのぎを削ってきた東農大出身の長浜(後の元小結・豊山)と5戦全勝同士で対戦した一番にはファンが選出する懸賞までかかった。日大と東農大の応援部による応援合戦も繰り広げられるほど盛り上がり、輪島が制した。長浜との対戦では翌71年九州場所でも時津風部屋の有力後援者の会社が懸賞を出した。現在の懸賞は幕内の取組のみと内規で決められているが、当時でも十両の土俵で懸賞旗が回ることは珍しい出来事だった。

 ・貴ノ花戦でケガ 73年九州場所で連勝を続けていた12日目、貴ノ花戦で差し手争いの時に右手人さし指と中指の間が裂けるケガを負った。つり出しで勝利し、左手で懸賞金を受け取ると病院に直行して6針を縫った。13日目は強行出場すると取組前に4度目の優勝が決定。その晩に39度の高熱が出たこともあり、師匠と相談して休場した。千秋楽の星取表には休場を意味する「や」が付いた。休場して優勝した力士は史上初めてだった。

 ・首固めで敗戦 プロレスでのデビュー後、87年から本格的にシリーズに参戦した。同年4月24日には横浜文化体育館で左腕から繰り出す最強の必殺技「ウエスタン・ラリアット」を持つスタン・ハンセンと対戦。「黄金の左対決」と注目を集めた。開始早々から相手のお株を奪うラッシュを見せたが、一瞬の隙を突かれて首固めで敗戦。ラリアットの相打ちで両者ダウンする場面もあるなど会場は大いに沸いた。

 【輪島語録】

 ・大学4年の全国学生選手権での優勝インタビュー。「ご兄弟は」と聞かれると「兄弟はいませんが、妹はいます」

 ・ある時、寿司店で「今日は辛いものが食べたい。“さちこ”明太子(めんたいこ)を握ってくれ」と注文。指をさしたメニューは「“辛子”明太子」。

 ・米国からの電話で後援会会長に「会長頼みがあります。お金もかかりますので、コレステロールでお願いします」と直訴。もちろんコレクトコールと言いたかったのだが…。

 ・取材で九州場所の宿舎を説明する際には「ピオネ荘の“ピ”はパピプペポの“ペ”」と意味不明発言。 

 ・ホテルに後援会関係者から電話がかかってきた時だった。「すいません。もう10円玉がなくなったので、(公衆電話が)切れます」と先方が言うので「じゃ、こっちからお金を入れるよ」

 ・ホテルで居合わせた俳優の竹脇無我さんには「テレビの大川越前、面白いですね」と言ってけげんな顔をされた。もちろん、竹脇さんが出演していたのは大岡越前。

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