テニスの全米オープン優勝者に見る奇想天外な人生物語 大坂が名を刻んだ奥深い歴史

[ 2018年9月13日 09:00 ]

大坂なおみ(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】テニスの全米オープンがまだ「全米選手権」と呼ばれていた1908年。女子シングルスを制したのはモード・バーガーウォラック(米国)だった。その時彼女は38歳。なんと30歳を過ぎてテニスを始めた選手が頂点に立った。

 東京・隅田川に初めて鉄橋が架けられた1887年。テニスの全米選手権には初めて女子シングルスの部が設けられ、18歳のエレン・ハンセル(米国)が優勝した。サーブは“横手”からというオールドスタイル。幼少のころは貧血気味で、体力をつけようと始めたのがテニスだった。

 20歳の大坂なおみが全米オープンで“天下”を獲る100年前。1918年のこの大会で勝ったのはノルウェー出身のモーラ・マロリー(旧姓はビュルステット)だった。ボールがバウンドしたあと最高到達点に届く前に打ち返すライジング・ショットで相手を疲弊させ、粘って粘って崩していく戦術と技術を駆使し、この年に4連覇を達成。さらに1920年からは3連覇、42歳となっていた1926年にも通算8回目の優勝を達成した。彼女がノルウェーから米国に渡ったのは第1次世界大戦中の1915年。米国でまずやったことはテニスをやることではなく、マッサージ師になるための勉強だった。

 大坂が全米オープンの女子シングルスで通算56人目の優勝者となるまで、131年の歴史を誇るこの大会には今となっては信じられないドラマティックな人間物語が蓄積され続けてきた。

 1941年と第2次世界大戦が終結した1945年に優勝したサラ・ポールフリークックは結婚歴3回。同じくテニス選手だった兄ジョンの妻はセオドア・ルーズベルト第26代大統領の孫娘だった。

 1893年に大会を制したアリーン・テリーと1906年の優勝者、ヘレン・ホーマンズは生年月日がわからない。だから何歳でトロフィーを手にしたのかは誰も知らない。テリーにいたっては引退後は消息不明。いつ亡くなったのかも明らかになっておらず「大会史上、最も謎の多い優勝者」として語り継がれている。

 1953年に初の年間グランドスラムを達成したモーリーン・コノリーはすぐに絶頂期から滑り落ちる。翌年に乗馬の最中にトラックにはねられて重傷を負い、19歳で現役を引退。4大大会では通算9勝を挙げて1968年には殿堂入りを果たしたのだが、すでにその2年前に卵巣がんと診断されており、3度目の胃がんの手術を受けてから17日後となった1969年6月21日に34歳で帰らぬ人となった。身長は1メートル60。小柄ながら14歳時に56連勝を飾っていた天才少女で、“リトル・モー”という愛称で人気があった。1978年には彼女をモデルにした映画「リトル・モー」が製作され、翌年には日本でも公開。記憶にとどめている昭和世代の方も多いことだろう。

 大坂がセリーナ・ウィリアムズを下して優勝するまで、全米オープンの女子シングルスは日本とは接点がなかったと思われる方がいると思うが、決してそうではない。

 1959年にブラジル人として初めてこの大会で頂点に立ったマリア・ブエノは、この大会がオープン化されて全米選手権から全米オープンと名前を変えた1968年に交通事故に遭って生死の境をさまよった。受けた手術は5回。大会に復帰したのは35歳になっていた1974年だが、グランドスラムを7回制した彼女は日本で再起を図った。

 同年に開催されたジャパン・オープンで優勝。プロ選手としての初タイトルは日本で獲得したものだった。しかも準決勝ではそれまで日本国内で192連勝を達成していた沢松和子に勝利。彼女の競技人生を最後に支えたのは、日本で得た貴重な体験だった。

 前身の全米選手権で4度優勝したブエノは、今年の6月8日、口腔がんのためサンパウロ市内の病院で78歳で死去。生きていれば大坂の姿はどう目に映ったことだろう?彼女が1964年に3度目の優勝を飾ったときの決勝のスコアは6―1、6―0。「私のほうが強かったわね。でもあなたも母国の歴史を変えたのね」とやさしく微笑んでくれたのではないかと思う。

 大坂が生まれたのは1997年。日本ではこの年、「たまごっち」が人気となった。流行語大賞は「失楽園」で、SMAPの「セロリ」がヒットした年だった。未来のヒロイン誕生まであと40日と迫っていた?9月6日、女子シングルスを制したのはマルチナ・ヒンギス(スイス)。ヒンギスはこの年に全豪と全英も制しており、1968年のオープン化以降としては史上最年少(16歳6カ月)での“年間3冠”を達成した。

 30歳からテニスを始めた人、年齢すらわからない人、3度も結婚した人、マッサージ師になろうとした人、ケガと病魔と闘った人、若くして頂点を極めた人…。優勝者の数だけドラマがあり、しかもそれは「点」ではなく「線」でつながっている。それこそがグランドスラムという名の大会が長年にわたって積み重ねてきた財産なのだ。そこに日本人の名前が加わったことを今、誇りに思う。

 2118年。この大会を取材する記者の中には「100年前ってどんな選手が優勝したんだ?」と、私同様に歴史の扉を開けようとする人間が出現することだろう。

 大いに時間をかけて調べるがいい。日本という国がどれほど歓喜したのかもわかるはずだ。その人物が書く記事を読むことはできないが、優勝者の欄にある名前にきっと何かを感じると思う。

 テニスの全米オープン優勝者。さて次は誰が歴史の扉をノックするのだろうか…。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。今年の東京マラソンは4時間39分で完走。

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