64年東京五輪金1号・三宅義信さん 重圧持ち上げる力をくれた映画、徹マン、囲碁将棋

[ 2018年9月12日 10:00 ]

2020THE YELL レジェンドの言葉

「もうすぐ80歳だからなぁ…」と照れながらも力こぶを見せてくれた三宅義信氏(撮影・森沢 裕)
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 1964年10月12日、東京・渋谷公会堂のメインポールに日の丸が揚がった。全国民が待ちわびた東京五輪の金メダル第1号。日本中の期待を一身に集め、その期待に見事に応えたのは重量挙げフェザー級(60キロ以下)の小さな巨人、三宅義信さん(78)だった。経験した者でなければ分からない地元開催の重圧と喜び。54年の歳月を経た今、昭和を代表するレジェンドが改めて当時を振り返り、2年後を目指す若者たちにエールを送った。

 今の選手たちにも、もちろん重圧はある。だが、三宅さんが背負った重圧は桁違いだった。戦禍に打ちのめされた当時の日本にとって、アジアで初めて開催される東京五輪は唯一の希望の光だった。何が何でも五輪を成功させて、日本人としての誇りを再び取り戻す。その象徴として全国民の期待を一身に集めたのが、身長1メートル55の小さな巨人、三宅さんだった。

 組織委員会は重量挙げを全日程の最初に組み込んだ。60年ローマ五輪2位、62年世界選手権(ブダペスト)優勝の三宅さんが、日本の代表選手の中で一番金メダルに近いと判断したからだった。

 「重圧は確かに凄かった。期待されているのは分かっていたし、自分でも日本を背負って立つつもりでいました。こんなこと言うと変に思われるだろうけど、もし負けたら切腹もんだなと本気で思っていました」

 東京での金メダル計画はローマ五輪直後からスタートした。

 「バンタム級(56キロ級以下)で出たローマは試合が大会の後半で待ちくたびれた。初めての海外で夜は眠れないし、食事も合わなかった。緊張で足が震えて全く自分の力を出すことができなかった」

 ローマでの反省をもとに、三宅さんは綿密な練習計画を立てた。宮本武蔵の「鍛錬千日之行、勝負一瞬之行」になぞらえた「1460日の行」の始まりだった。汗と涙の根性主義が当たり前だった時代に、三宅さんは1年を4期間に分けて練習内容を細かく管理。栄養学や解剖学の本も自腹で買い込んだ。

 「食事がしっかりしていないと力にはならない。最盛期は1日4・5キロ、8000キロカロリーぐらいは食べたかな。食べても睡眠をしっかり取らないと活力にはならない。何を食べればいいか、どうすればよく眠れるか。全部自分で考えて実行しました」

 その一方で、メンタル面の強化法はユニークだった。滝行に自衛隊のパラシュート降下訓練。「戦略が参考になるから」と囲碁や将棋もたしなんだ。

 極めつきは麻雀だ。「精神修業とストレス解消にはこれが一番」と合宿中にコーチ陣や同僚と毎晩のように雀卓を囲んだ。「国費で麻雀とは何事か」と新聞で叩かれたこともあったが、三宅さんは全く意に介さなかった。

 「あの当時は精神修業には麻雀が一番だった。自分が今ここに何本残っている。これを振ったらどうなる?ダメだな。じゃ、これは振れないな。降りるしかないか…。そういう駆け引きが重量挙げでも凄く役に立った」

 実は東京五輪の開会式が行われた10月10日の夜、三宅さんは代々木公園の選手村で午前2時まで雀卓を囲んでいる。今だったら大問題になるところだが、三宅さんにはちゃんとした理由があった。

 「減量で腹が減ってイライラするし、1人になると負けたらどうしようかとか、悪いことばかり考える。でも、麻雀をやっている時はそんなことは何も考えなくて済む。試合前夜に緊張して眠れなければ、試合に悪影響が出るしね。わざと睡眠不足の状態をつくり出すのも目的でした」

 麻雀だけではない。開会式前日は渋谷でこっそり映画の「座頭市」に見入った。それが「三宅流」のストレス解消法だった。

 狙い通り、試合前夜の11日夜は、「徹マン」のおかげでぐっすりと眠れた。「1460日の行」を経て心身ともに完璧の状態で試合に臨んだ三宅さんは、9本の試技を全て成功させ、見事にパーフェクト優勝。日本に第1号の金メダルをもたらした。

 あれから54年。最後に2年後に挑む今の若者たちへのエールをお願いすると、こんな言葉が返ってきた。

 「ボクシングとか体操とか、ちょっと今、スポーツ界がおかしいよね。僕らの時代と今とでは違うけど、五輪のような大きな大会では選手と監督、コーチが完全に一体化しなければ絶対に勝てませんよ。それはいつの時代も変わらない。お互いの信頼感が一番大事なんです。それをもう一度思い出してほしい」

 ◆三宅 義信(みやけ・よしのぶ)1939年(昭14)11月24日生まれ、宮城県柴田郡村田町出身の78歳。大河原高(現大河原商)2年から本格的に重量挙げを始め、法大2年だった60年ローマ五輪のバンタム級で銀メダル。62年に陸上自衛隊に入隊し、64年東京五輪ではフェザー級で日本選手団最初の金メダルを獲得した。68年メキシコで五輪連覇を達成。72年ミュンヘン五輪後に引退。現在は東京国際大特命教授、同ウエイトリフティング部監督、NPO法人「ゴールドメダリストを育てる会」理事長。

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