故アン・ドノバンさんの思い出 34年前に受け取っていたクリスマスの贈り物

[ 2018年6月16日 10:30 ]

56歳で亡くなったアン・ドノバンさん(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1984年12月24日だったと思う。ロサンゼルス五輪の金メダルとクリスマスが話題だったからだ。取材場所は東京都内のホテル。レストランとか会議室などではなく、部屋の前の通路だった。しかも夜の10時すぎ。「あわただしいから5分くらいかな?」と思って話を始めると、いつしか30分が経過していた。

 取材対象は当時、女子バスケットボールの日本リーグに所属していたシャンソン化粧品の長身センター、アン・ドノバン。当時はまだ23歳だった。

 取材は開始5分でいったん中断となった。理由は私が使っていた水性ペンから黒いインクが出なくなったため。当時の取材の基本はとにかく文字で書くこと。動画を撮影できるスマートフォンという道具を駆使する世代の方には信じられないかもしれないが、34年前はアナログ100%の時代だった。だから私もそうしていた。

 インクが出なくなった理由は2メートル4の彼女と私の身長差が30センチもあったから。想像してみてほしい。彼女の表情を見ようとすると私は上を向かなくてはいけない。メモ帳も上を向く。そこに字を書こうとするとペン先も上を向く。すると中に入っているインクは地球の引力に引き寄せられてペンの“お尻”に落ちていく。

 ドノバンとはこの日が初対面。取材メモを残せずおろおろする私を見かねたのか、彼女は笑いながら「ペンが生き返るのを待ちましょう」と話しかけてくれた。

 ペンの“蘇生”まで3分ほど。仕方ないので私は記事とは無関係の自己紹介に徹して「こうなってしまったのは父も母も小柄だからです。すみません」と親の責任にしてその場をとりつくろった。するとドノバンは「私の父と母は逆に大きくてね。兄たちも大きいの。ごめんね」とジョークにジョークで対抗。やがて生き返った?水性ペンは、ドノバンの父ジョセフ氏が1メートル98で、母アンナさんが1メートル83、ドノバンは8人きょうだいの末っ子で4人の兄の中には2メートル16のジョンさんがいることを書き留めることになった。

 輝かしいキャリアである。オールド・ドミニオン大(バージニア州)時代に当時の全米大学選手権を制し、年間最優秀選手に与えられるネイスミス賞も受賞。1984年のロサンゼルス五輪と88年のソウル五輪では米国代表の一員として金メダルを獲得した。日本リーグ(現Wリーグ)でもシャンソン化粧品の3度の優勝に貢献し、シーズンMVPに2度選出された。

 28歳で現役を引退したあとは指導者としての道を歩み、1995年に東カロライナ大の監督に就任。その後、プロリーグ(ABL&WNBA)の監督となり、2004年にはシアトル・ストームを優勝に導き、女性のヘッドコーチとして初の王座を獲得した。

 2006年には米国代表の監督にも就任。2008年の北京五輪を制し、選手としても指揮官としても金メダルを獲得している。バスケットボールの殿堂入りも果たすなど、全米を代表する選手兼監督の1人だ。

 ただし私は取材時に彼女の未来が見えなかった。ペンのインクが出なくなったときには動揺してしまったが、年齢も私の方が3つ上だったので、その後は割と気軽に話していた記憶がある。殿堂入りを果たす偉大な人間に対して、なんと失礼な取材だったのかと今、思えば恥ずかしくなる。

 2018年6月13日。彼女は北カロライナ州ウィルミントンの自宅で倒れ、帰らぬ人となった。享年56。2メートル16の兄ジョンさんによれば以前から心臓疾患を抱えていたのだと言う。死去する4日前には、自身も1999年に選出されている女子バスケットボールの殿堂入り式典のためテネシー州ノックスビル入り。それが公の場で見せた最後の姿となった。

 ウィルミントンと言えばあのマイケル・ジョーダン(現NBAホーネッツ・オーナー)が高校までの青春時代を過ごした場所だが、ニュージャージー州出身のドノバンがなぜそこで14年間も生活していたのかは知らない。心臓疾患といってもいろいろあるはずだが、具体的な症状もわからない。だから死亡したという事実を突き付けられたとき少々戸惑った。なぜなら私のメモ帳には彼女の近況がなにひとつ書かれていないからだ。

 監督業を退いて3年が経過している。ジョンさんによればドノバンはこの“隠居生活”をけっこう楽しんでいたが、その一方で現場復帰にも意欲を示していたという。しかしその願いはかなえられなかった。

 日本のスポーツ界では監督、コーチという職業に携わる人間の資質が問われている。ひとつだけ言えるのは、優秀な指導者というのはずっと昔にも何かヒントを残している人物。身長は2メートル4であっても、ドノバンの“心の目線”はどんな記者にもどんな選手にも同じ高さだったような気がしてならない。

 今回、彼女の死に接していろいろと調べてみた。すると1997年に兄の1人、ジョセフJR氏がルイジアナ州ニューオーリンズで殺害されていることがわかった。エンジニアだった父ジョセフさんが1996年に死去したため、母アンナさんは秘書として働いて生計を立てたことも知った。ドノバンはバスケットボール界では成功したが、家族のことではかなり悩んだかもしれない。

 ドノバン家はこんな声明を発表している。

 「アンを失った悲しみをどう表現していいのかわかりません。彼女がずっと素晴らしい人間であったことに感謝します。彼女は娘として、妹として、従妹として、友人として、コーチとして当家に尽くしてくれました。強い信念と勇気を持ち、すべての人を愛した人間でした。選手や監督として素晴らしい実績を残しましたが、むしろその人間性の方が私たちにとっては誇りでした」。

 水性ペンのインクが戻るまでの3分間。結局、どんな記事を書いたのかはまったく記憶に残っていないが、この短い時間の中で自分の過去、現在、未来を全部語りかけていた人物を私は他に知らない。

 WNBAの初代会長を務めたバル・アッカーマンさん(58)は「体ではなく言葉にこそアンの大きさがある」と語ったが、まさにそうだと思う。たぶん彼女に率いられた選手たちもそう感じているのだろう。

 34年前のクリスマス・イブ。サンタクロースはその時には価値がわからない大切なものを私に届けていた。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。今年の東京マラソンは4時間39分で完走。

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