カヌー・羽根田卓也 移住、語学、資金集め…壁を越え続けた竹内さんにあっぱれ

[ 2018年2月25日 11:00 ]

平昌冬季五輪 スノーボード女子パラレル大回転 ( 2018年2月24日 )

竹内智香
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 【メダリストは見た】竹内智香さんの準々決勝進出を心から称えたいと思います。前回銀メダリストとして、いろいろな重圧があったことは想像に難くありません。5位おめでとうございますという言葉と、お疲れさまでしたという言葉を伝えさせていただきます。

 14年ソチ五輪は、僕が拠点を置くスロバキアでもよく報道されていました。だから、日本選手の活躍は記憶に残っています。僕自身が幼少時からスノーボードに親しみ、大人になってからも雪山に頻繁に通っていたこともあって、特に、竹内さんの銀メダルは印象的でした。オーストリアに移住した経歴にも親近感を覚えました。

 僕が日本を飛び出したのは2006年。強豪国スロバキアでの生活は、当時で9年目に入っていました。五輪は08年北京、12年ロンドンに出場し、表彰台に届いていませんでした。そんな時に、竹内さんのメダルを目の当たりにしたのです。

 「俺もやんなきゃ」

 凄いという気持ちのほかに、そんな感情がこみ上げてきました。海外、しかも同じ欧州で活動する身として、もの凄く刺激を受けました。16年のリオデジャネイロ五輪の銅メダルに、遠からず影響がありました。

 アスリートとして尊敬する点は他にもあります。竹内さんのホームページ(HP)には競技の活動資金をどう集めたか、というのも掲載されていました。

 スポンサーの支援がなければ、我々は競技を続けられません。僕はロンドン五輪の後、履歴書や手紙を10社ほど送り、その中で、現在の所属先であるミキハウスから、いいお返事を頂きました。競技を離れたところの活動について、竹内さんのHPを何度も見て参考にしました。

 海外で生活をする上で欠かせないのは、語学でしょう。竹内さんはドイツ語を話しますよね。僕も必死にスロバキア語を覚えました。というのも、当時のコーチはスロバキア語しか話せなかったので、もっと教えてほしいという気持ちから、頭に叩き込みました。

 「語学の壁」という言葉をよく耳にしますが、言葉は簡単です。覚えるか否かはその人の意思の問題。言葉を「壁」にする人は、他の「壁」を語学にすり替えているだけだと思います。現地の言葉は自動車免許みたいなもの。話せなければ、道路の端っこをいつまでも走るしかありません。文化、メンタルのつくり方などを知りたければ、現地の言葉を覚えるしかありません。

 日本だと、引退の時期は「ピークの時に」、「ケガをしたら」などいろいろな意見を耳にします。でも、欧州は一定しています。「面白いと思えなくなったら、やめるしかない」。こんなことを知れたのもいい勉強です。

 日本には日本の良さがあり、スロバキアにはスロバキアの良さがあります。両方の視点を大事にしながら、2020年東京五輪を目指します。

 ◆羽根田 卓也(はねだ・たくや)1987年(昭62)7月17日、愛知県豊田市生まれの30歳。父・邦彦さんの影響で小4で競技を始める。杜若高3年で日本選手権制覇。06年にスロバキアに渡り、09年にコメニウス体育大に入学。同大学院卒。3度目の五輪となる16年リオ五輪で日本勢初メダルの銅を獲得。1メートル75、70キロ。

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