平昌五輪と朝鮮戦争 1人の選手が思い起こさせてくれた遠い記憶

[ 2018年2月24日 09:30 ]

祖父の遺灰をアルペン競技会場にまいた米国のボン(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】私の郷里、福岡県北九州市小倉北区には「メモリアルクロス」という大きな十字架がある。場所は足立山という山の中腹。中学と高校時代にはこの山道でマラソン大会があり、どちらもこのメモリアルクロス付近が折り返し地点だった。

 朝鮮戦争(1950〜53年)で戦死した国連軍兵士の墓碑。その事実は知っていたが、マラソンが苦手な私にとっては、苦痛から逃れる時間が近づいていることを知らせてくれるターニング・ポイントにすぎなかった。「ああ、これでゴールに少し近づいた」。背中から離れていく十字架は、ある意味、心のやすらぎだった。

 平昌五輪アルペンスキー女子の滑降で3位となった米国のリンジー・ボン(33)は、昨年11月に88歳で亡くなった祖父ドン・キルドーさんの遺灰を、滑降が行われた旌善(チョンソン)競技場のコース周辺にあった岩の上にまいた。

 いわゆる散骨。キルドーさんは朝鮮戦争時に米陸軍のエンジニアとして従軍しており、韓国への思い入れがことのほか強かったのだという。

 「祖父は私の活躍を楽しみにしていました。だからここに戻ってくることには大きな意味があったんです」。五輪期間中、祖父について聞かれたボンはこう語りながら号泣している。期待された滑降での金メダルは獲得できなかったが、「銅メダルでも祖父は喜んでくれたはず。私にとっては特別な五輪でした」と祖父とともに戦った大会を充実感あふれる表情で振り返っていた。

 「米軍兵士が小倉市内(当時)で脱走」という見出しがあった古い新聞の切り抜きを見たことがある。駐留米軍の小倉師団から兵士が逃げたのである。朝鮮戦争での米軍兵士の死者・行方不明者は4〜5万人。戦地に赴けば死を覚悟せざるをえない状況だった。その恐怖がどれほどのものだったのか?ボンによる散骨という記事を読んだ後、私の脳裏に刻まれていたメモリアルクロスの姿が少し違って見えた。

 朝鮮戦争は休戦という状態で半世紀以上が経過。今だ最終的決着は図られていない。平昌五輪は真の和平に向けた第一歩となるのか?キルドーさんも孫娘の活躍とともに、それが気がかりだったのではないかと思う。

 郷里に戻るたび、私はかつてのマラソンコースを走る。高校最後の大会が終わった後、「二度とマラソンなんかやるもんか」と心に誓いながら、皮肉にもそれが今や「生涯スポーツ」のひとつになってしまった。そしてメモリアルクロス付近で小休止。眼下に広がる小倉市街の風景を見ながら息を整える。

 しかし、もしそこにボンがやって来たら彼女の目線はもう少し遠いところに向けられるだろう。今まであまり感じたことがなかったが、はるか彼方にあるのは朝鮮半島。次回ここを走った時には、もう少し先を見てみようと思う。

 さて、ボンに連れられて韓国に戻ったキルドーさんは今、天国で何を思っているだろうか…。平昌五輪アルペンスキーの滑降競技会場。郷里のウイスコンシン州ミルトンから旌善に戻ってきた元米軍兵士の魂は、雪に包まれながら遠い記憶を掘り起こしていることだろう。(専門委員)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市小倉北区出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。スーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会に7年連続で出場。

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