もし、私たちを見て、1人でも氷に立ちたいと思う子がいたら…

[ 2018年2月23日 10:20 ]

平昌五輪アイスホッケー女子5、6位決定戦でスイスに敗れ、試合後、観客にあいさつするFW大沢ちほ(右)ら日本の選手たち
Photo By 共同

 【君島圭介のスポーツと人間】とにかく明るい女の子の集まりだった。スケートが楽しくて仕方がない。ただ、それでは足りなかった。その日本代表の強化合宿に足を運ぶと、トレーニングコーチが教えてくれた。

 「集合日に体脂肪率を測ったら、その辺のOLと変わらないんです。今まで何をしてきたのか。頭に来ましたよ」

 コーチは嫌がらせのつもりで、男子でも文句を言うような厳しいウエートトレーニングのメニューを個別に作って渡した。根を上げさせて、甘い考えを正すのが目的だった。

 「でもね、彼女たち、そのメニューを泣きながら、深夜までかけてやり抜いたんですよ」

 実際、彼女たちは「その辺のOL」だった。北海道の企業のクラブチームに所属していたある選手は合宿の直前に会社に呼び出され、「五輪まで出してやるんだから、終わったら仕事に集中しなさい」と迫られたという。

 その選手は陸上短距離でも全国クラスの成績を誇る俊足FWだった。中学生まではスピードスケートをしていたが、「アイスホッケーの練習を見たら室内で暖かいし、仲間がいて楽しそうだったから」と転向し、日本代表まで上り詰めた。

 長野五輪で女子アイスホッケー競技が初採用され、自国開催の日本は予選免除で出場が決まった。国際大会の経験はなかった。メディアに大きく取り上げられたこともなかった。私が記事にした新聞紙面を見せると、みんなで回し読みして大騒ぎしてくれた。

 1998年2月8日。長野市のアクアウィングの氷上に初代アイスホッケー女子五輪日本代表が立った。

 0―13。カナダに喫した歴史的大敗がスタートだった。日本はそのまま5戦全敗。得失点差は屈辱のマイナス43点。チーム解散式の翌日、仕事に専念するように通告されていたあの選手が気になった。携帯電話はまだ普及していない。北海道の自宅にかけると、戦い終えたばかりのオリンピアンが電話口に出て言った。

 「みんな怒ってましたよね。私たちを見て、呆れていましたよね」

 そんなことないよ――。そう伝えるのが精一杯だった。

 「私、本当はホッケー辞めるつもりでした。でも、辞めません。みっともない試合でしたけど、もし、日本のどこかで私たちを見て、1人でも氷に立ちたいと思う子がいたら…。そのとき、私たちが氷の上にいなかったら申し訳ないじゃないですか」

 あれから20年。アイスホッケー女子日本代表は2勝を挙げ、6位で平昌五輪を終えた。望んだ結果ではなかったが、大沢ちほ主将は「日本のアイスホッケーを変えられる結果になったんじゃないかと思う」と胸を張った。

 彼女たちの笑顔と悔しさあふれる表情を見て、氷に立ちたいと思った子は決して少なくはないはずだ。近い将来、日本は必ず表彰台に上がる。98年の、あの女の子たちの涙を思い返せば、そう信じることが出来る。(専門委員)

 ◆君島 圭介(きみしま・けいすけ)1968年6月29日、福島県生まれ。東京五輪男子マラソン銅メダリストの円谷幸吉は高校の大先輩。学生時代からスポーツ紙で原稿運びのアルバイトを始め、スポーツ報道との関わりは四半世紀を超える。現在はプロ野球遊軍記者。サッカー、ボクシング、マリンスポーツなど広い取材経験が宝。

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