NFLで常態化する国歌斉唱時のニーダウン 抗議と抵抗は本当に“正義”なのか?

[ 2017年8月25日 10:30 ]

プレシーズンゲームの国家斉唱の際、膝をついて整列しなかったブラウンズの選手たち(AP)
Photo By AP

 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】米プロフットボール・リーグ(NFL)は現在、プレシーズン・ゲーム(オープン戦)が進行中。9月7日に開幕戦(ペイトリオッツ対チーフス)が行われるが、その5日前に試合に出場できる最終登録の53人が決まる。その日は9月2日。VJ・DAYと呼ばれる米国にとっての対日戦勝記念日でもある。

 NFLと第2次世界大戦は無縁ではない。戦争は勝とうが負けようが多くの命を奪う。NFLでも当時、リーグに所属していた19人の現役選手がこの戦争で命を落とした。

 陸軍航空隊に所属していたウォルター・ローランド・ヤング大尉もその1人。愛称はワッディー(WADDY)だった。オクラホマ大時代、オレンジボウルに出場。そのあと当時のブルックリン・ドジャース(大リーグとは別組織)に入団した。1メートル91、93キロのラインマン。ニューヨーク・ジャイアンツとの試合の最中には、実況アナウンサーに頼み込んで交際していた美人モデルにプロポーズの言葉を場内アナウンスで伝えてもらい、2人はやがて結婚したという逸話が残っている。NFLのテレビ初中継となった試合にも出場。まだスーパーボウルのなかった時代だが、リーグの歴史に名を残している選手の1人だった。

 しかしそんな愛にあふれた生活は長く続かなかった。戦争が始まると志願して陸軍に入隊。欧州戦線で「リベレイター(解放者)」と呼ばれたB―24爆撃機のパイロットとして従軍した。功績があった彼はそのあと退役できたはずだが、今度は太平洋戦線で「スーパー・フォートレス(超空の要塞)」と呼ばれていた大型爆撃機B―29の操縦かんを握ることを志願。人望が厚かったことは、機体にファーストネームの「WADDY」がペイントされていたことでもうかがえる。

 運命の日となったのは1945年1月9日。ヤング大尉率いるB―29は東京の多摩にあった中島飛行機・武蔵野製作所周辺に爆弾を投下した。戦果あり。あとはUターンして帰還すれば何の問題もなかった。ところが途中でエンジン1基から火を噴いていた友軍機を発見。後方には日本が「鍾馗(しょうき)」と呼び、米国が「TOJO」と呼んでいた二式戦闘機が十数機確認できたという。

 ここからの詳細はわかっていない。おそらくラインマンらしく、仲間に走路ならぬ“空路”を切り開こうとして援護し、その犠牲になったのだと思う。最後に「WADDY機」が目撃されたのは千葉・銚子から16キロ沖の洋上。ヤングは二度と母国の土を踏むことはなかった。28年という短い生涯だった。

 日本軍にとっては悲劇の舞台となったガダルカナル島では、米軍が激戦を制したあとに「フットボール・クラシック」というアメフトの試合が行われている。1944年のクリスマスイブに楕円形のボールを追ったのは、海兵隊の第4連隊と29連隊から選抜された兵士たち。その29連隊チームに監督兼主将として出場したのが、NFLのデトロイト・ライオンズで1シーズンだけプレー経験のあったチャーリー・ビーハン中尉だった。

 ライオンズではタイトエンド(TE)として4回のレシーブで63ヤードを獲得。正確な体のサイズはわからないが、おそらく海兵隊の中でもかなり大柄だったはずだ。

 しかしこの試合に出場したほとんどの海兵隊員はすぐに沖縄戦に駆り出された。ライオンズの元TEは榴散弾(りゅうさんだん=対人・対非装甲目標の砲弾)を浴びる。砲弾内部からさく裂した球体の散弾はビーハンの体を直撃。重傷を負った。しかもそれでも彼は戦闘を続けた。「簡単には倒れない…」。タックルされても前に行こうとするNFL選手としての本能とプライドが、じっとしていることを許さなかったのかもしれない。結局、立ち上がったところで銃弾を浴びて絶命。終戦直前だった1945年5月18日、ビーハンは24歳でこの世を去った。

 東京大空襲、沖縄戦…。日本の視点からするとヤングもビーハンも敵になるが、彼らにも守らねばならぬものがあり、華やかなプロのスポーツ選手としての人生を断ち切って戦場に赴いた面々だった。 NFLは目下、黒人への差別に抗議する意味を込め、試合前の国歌斉唱の際に膝をついて整列をしない選手が続出している。星条旗に対する価値観も違ってきたようだ。ただ、その旗のために命を捧げたリーグの先輩がいたことを忘れてはいけない。たとえ大統領が差別主義団体を批判せず、警官による理不尽な射殺事件が続出しても、抗議と抵抗にはもっと違った形があるはずだ。

 対日戦勝記念日と重なるNFLの最終登録メンバー決定日。キャンプ初日と比べると、2人に1人しか“合格通知”はこない。だからプレーできることの喜びは思う存分、満喫してほしい。そして勝ち残った選手は少しだけ過去を振り返ってはくれないか。今、君たちがそこにいられるのはなぜなのだ?私は日本人でフットボールの選手経験もないし、確固たるイデオロギーも政治思想も持ち合わせていないが、日本で命を落としたヤングとビーハンの気持ちは理解できる。

 NFLの2017シーズン。試合前のセレモニーがどうなるのかは不透明だ。それでも最後まで政治とは無縁の状況下で熱狂に包まれることを祈っている。本来、スポーツとはそういうものではないだろうか…。 (専門委員)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、佐賀県嬉野町生まれ。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。スーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会に6年連続で出場。

続きを表示

2017年8月25日のニュース