【復刻版】真央、銀…悔し涙流せるのは頑張ったから 自己ベストもヨナに完敗

[ 2017年4月11日 12:22 ]

浅田真央引退 復刻1面特集(2010年02月27日付)

浅田真央引退 復刻1面特集(2010年02月27日付)
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 【バンクーバー五輪(2010年2月25日 パシフィックコロシアム)】銀メダルを胸に真央が泣いた。目標の金メダルを逃し悔し涙を流した。女子フリーが25日(日本時間26日)に行われ、SP2位の浅田真央(19=中京大)はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を2度成功させたものの、フリー2位の131・72点。合計205・50点は自己ベストだったが、世界最高得点を叩き出した金ヨナ(19=韓国)に及ばなかった。SPと合わせ五輪女子史上初めて大技3発を成功させながら銀メダルに終わった19歳は、4年後のソチ五輪(ロシア)を目指す。

 両手を天に突き上げてフィニッシュしても、はじける笑顔はない。大歓声が降り注いでも、硬い表情が崩れない。得点が表示されると、浅田は唇を真一文字に結んで現実を受け止めた。合計205・50点は自己ベスト。トリプルアクセルにも2度成功し、五輪女子史上初の1大会大技3発の偉業も達成した。それでも、一番輝くメダルには届かなかった。

 キス&クライではぼう然。ジャージーが肩からずり落ちるのも構おうとしなかった。その後のインタビューでこらえていたものがあふれ出た。

 「本当に長かったというか、あっという間でした」。手渡されたティッシュを握りしめたままこぼれ落ちる涙をぬぐおうともしない。その姿に悔しさがにじんだ。

 しばらく絶句した後、涙をふいて「4分間だったんですけど、凄く、もう…いろいろ考えたりして長かったと思ったんですけど、本当にあっという間に終わってしまいました。悔しいけど、自分のできることはできたかなと思います」としぼり出した。

 直前に滑った金ヨナが世界最高の228・56点をマーク。逆転には154・79点が必要。ミスが許されない状況で、ラフマニノフの前奏曲「鐘」がスタート。冒頭の単発のトリプルアクセル、続くトリプルアクセル―2回転トーループのコンビネーションを決めた。重厚な旋律に漂う逆襲ムード。だが、後半の3回転トーループを跳ぶ直前に左足のエッジが氷に引っかかって跳び上がることができず。再チャレンジも助走が取れず1回転になった。「(トリプル)アクセルを跳べた後から緊張感が出てきた。なぜか体が凄く緊張を感じていた。足に疲れが来ていたのかもしれない」。ライバルに勝つため、2度跳んだトリプルアクセルの負担が後半のミスにつながった。

 待ちに待った五輪だった。4季前の05年12月、GPファイナルでスルツカヤらを破って主役を務めながら年齢制限に87日足りず、トリノ五輪には出場できなかった。ショックはなかった。4年後、必ず自分が輝けると信じていた。08年には世界選手権で金メダルを獲得。順風満帆だったが、五輪シーズンの今季、序盤大不振に陥った。得意のトリプルアクセルが決まらずに苦しんだ。シニア自己ワーストの5位に沈んだ昨年10月のロシア杯後は「スケートが楽しくない」と漏らし1時間近く控室にこもって泣いた。五輪出場を決めた昨年12月の全日本選手権前も思うようにジャンプが跳べないと「不安で仕方がない」と涙を流した。栄光と挫折を経てたどりついた舞台だった。

 小さい頃から誰にも負けたくなかった。男の子とケンカすれば必ず勝って帰ってきた。髪をくくるのも、スカートをはくのもまれだった。5歳で初めて履いたスケート靴。戦隊ヒーローの箸(はし)入れを愛用していた浅田の夢は、その時から「お嫁さん」や「ケーキ屋さん」といった女の子らしいものではなかった。どんな大会でも負けたくなかった。どんな大会でも金メダルが欲しかった。将来の夢は自然と決まっていた。「五輪での金メダル」と。

 夢はかなえられなかった。悔し涙とともに記憶に刻まれた初の夢舞台をこう振り返った。「五輪は4年に一度しかないので、出られて良かった。悔しい思いはあるけど凄くいい舞台だなって思いました。もう一度この楽しい舞台に立ちたいという思いはあります」。4年後はソチ。必ずこの舞台に帰ってくる。五輪の女神を振り向かせて、黄金の夢をかなえるために。 (杉本 亮輔)

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2017年4月11日のニュース