稀勢の里「いつも横綱は孤独」亡き師匠の言葉を胸に

[ 2017年1月24日 09:00 ]

横審の決定を受け笑顔で会見する稀勢の里
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 横綱昇進を期待され続けてきた稀勢の里が、ついに最高位に就く。新十両、新入幕とも史上2位の若さでの昇進だったが、大関昇進後は31場所をかけて史上3位の遅さでの昇進。愚直な人間性、ここまでの苦難の道のりから、将来の横綱像までを「初V稀勢の里 待ってました和製横綱」と題した5回の連載で分析していく。1回目は亡き師匠、元横綱・隆の里の元鳴戸親方とのエピソードをひもとく。

 優勝パレードから東京都江戸川区の田子ノ浦部屋に戻ってくると、上がり座敷に置かれていた先代師匠の遺影に向かって正座し、優勝を報告した。入門当時の師匠である元横綱・隆の里の元鳴戸親方は11年11月に急死したが、5年以上経過した現在でも2人は固い絆で結ばれている。

 稀勢の里に15歳の頃に戻れたら、どの部屋を選ぶかと聞いたことがある。その答えは「やっぱり鳴戸部屋かな」。

 田子ノ浦部屋の前身である鳴戸部屋に入門したのは茨城・長山中卒業後。4番でエースを務めていた野球で注目されていた萩原少年は、有名高校から勧誘を受けたが、それを蹴って角界入りした。「高校で勉強などに時間を取られて3年間を無駄にしたくなかった。やるからには相撲一本でいこうと」。だから「稽古が一番厳しい」と言われていた鳴戸部屋に決め、インターネットで調べて当時千葉県松戸市にあった部屋を訪問。入門に至った。

 一番厳しいというのは本当だった。「稽古はウソをつかない。努力はウソをつかない」。元鳴戸親方からは、事あるごとにそう言われた。中学卒業後に入門してから、来る日も来る日も激しい稽古に明け暮れた。1日100番以上も取ることもあった。当時は現役だった西岩親方(元関脇・若の里)は「涙を流しながら稽古をしていた」と回想する。若い頃はまわしを取ることを許されず、ただひたすら前に出る稽古。稀勢の里も「そのときの貯金がある」。土俵に染みこんだ汗と涙の分だけ強くなった。先代師匠の言葉通りだった。

 土俵上での稽古だけでなくウエートトレーニングなどで鍛え上げたことで「ポパイ」とも呼ばれていた隆の里。最近はその先代師匠に体つきが似てきたと言われることもある。だが「似てないですよ。筋肉なんて3分の1くらいしかない」と笑う。若かりし頃に見た先代師匠は、神様である横綱まで上り詰めた偉大な存在。当時を思い起こしても、自らと比べることは難しいのだろう。だが、遠回りはしたものの、ついに同じ地位に肩を並べることになった。 (特別取材版)

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2017年1月24日のニュース