宮原知子 ミスパーフェクトのスイッチが入るとき

[ 2016年11月9日 09:30 ]

昨年のGPファイナル、演技直前の宮原知子選手。濱田コーチの手の色が変わるほど強く握りしめているのがわかりますか?(撮影・長久保豊)

 【長久保豊の撮ってもいい?話】ワンフロアに設けられた記者会見場とプレスルーム。その境目に見つけ出した15メートルほどの直線を「トタタタタ」と彼女が走っている。ダッシュに近い、かなりのスピードなのだが彼女の軽やかさと相まっての「トタタタタ」なのだ。

 リンクに降り立てばシャッター音に包まれる彼女だが、ウオームアップを続けるここでは「カシャリ」の音もしない。

 長机に機材を投げ出したままのカメラマン。パソコンに向かっているふりをする記者たち。あえて彼女の方に視線を向けない。それは誰かがレンズを向けただけで、声を掛けてしまうだけで壊れてしまうような不思議な空間だったから。

 「お騒がせしました」

 プレスルーム中に響く大きい声でそう言うと彼女はペコリと頭を下げてリンクに向かった。

 昨年の全日本フィギュア、真駒内セキスイハイムアイスアリーナの出来事だ。

 普段と変わらないアップ等のルーティーンを普段と変わらずにやる。それが彼女、宮原知子選手にとっての緊張克服法で、プレスルームがその条件にあっただけなのかも知れない。でも何かうれしかった。こちらを信じてもらえたみたいで。

 ルーティーンと言えば演技直前の選手とコーチの間にはさまざまな形のそれがある。無言で見つめ合う、拳をぶつける、手を握り合う、背中をバシバシ叩く、後ろからハグする(これはアニメ「ユーリ!!!on ICE」のお話でした)。

 宮原選手と濱田美栄コーチとの間にも「オデコごっつんこ」というルーティーンがある。これは門下生である本田真凛、白岩優奈、紀平梨花選手らと濱田コーチの間で共通したもの。宮原選手が他の選手たちと異なるのは「ごっつんこ」の後。手を握り合い、せっせっせとやるまでは共通だが、振り返る直前にもう一度強く濱田コーチの手を握り返す。そうすると何が起こるか。

 時として気弱に見える彼女の顔が一瞬にして強い表現者のそれになる。

 4分もの間、自分だけにそそがれる観客の視線を耐え、表現者になるためのスイッチ。それは選手自身の体に付いていてコーチに押してもらう例もあれば、自分で入れる選手もいる。宮原選手のスイッチは濱田コーチの手のひらについていて彼女はそれを押し込んでリンク中央に向かう。

 今月のNHK杯は今季絶好調のポゴリラヤ選手らとの競演。宮原選手にとっては昨季、ミスパーフェクトの称号を得る起点となった大会だけに期待は大きい。

 舞台は真駒内。われわれはプレスルームの長机を少しだけ壁際に寄せて「トタタタタ」の軽やかな響きを待つことにしよう。残念ながらその写真をお見せすることはできませんけどね。(編集委員)

 ◆長久保 豊(ながくぼ・ゆたか)1962年生まれの54歳。学生時代を帯広で過ごしたのでスケートリンクの作り方は知っているが滑り方は知らないカメラマン。

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2016年11月9日のニュース